CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章24
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 随行している年若い従者が、手にした盆を一礼して差し出す。
「旦那様。こちらの主人から "よしなに" と」
 盆の上のグラスには、美しくゆらめく赤い液体。
「いや、結構」
 窓を背にした書き物机で、アルベールは苦笑いで片手をあげた。
「皆が忙しくしている時に、僕だけ飲むわけにはいかないよ」
 どうやら邸主は美食家らしい。グラスの横の黒瓶には、庶民の手には入らない「最高級酒」を示すラベル。
「お心遣い感謝すると、主人に伝えてくれるかい?」
「かしこまりました」
 机の書類に広げたそれに、アルベールは目を戻す。トラビア周辺の河川や起伏を書き記した豪華な図絵──ふと、気配を感じて目をあげた。
「まだ、用があるのかな」
 困ったような笑みを浮かべて、従者はちらと扉を見る。「その、いかがいたしましょうか、あちらの方・・・・・は」
 アルベールはしばし考えを巡らせ、思い当たって苦笑いした。「"これまで通り"と、守衛に伝えてくれるかい」
「お会いにならなくてよろしいのですか」
「用件はわかっているからね」
「ですが、クレスト夫人を無下にするのは──」
「今は少し差しさわりがあってね。面会はご遠慮いただこう」
「では、そのように先方にお伝えしますか? ずっと捜しておられるようですし」
「いや、それには及ばない。むしろ、このまま町にいてもらった方がありがたい。ご婦人に戦地は危ないからね」
「承知いたしました」
 うやうやしく一礼し、従者は扉へ歩いていく。
 廊下へ出たのを見届けて、アルベールは図絵に目を戻す。報告を受けていた。領邸別棟を抜け出したエレーン=クレストが捜していると。
 だが、話はわかっている。トラビアの要塞に立てこもるダドリー=クレストの助命嘆願。

 面会してやれ、とレノは言う。
 クレスト領主の身柄を捕縛、公式の裁きにかけるよう。平素は手厳しいあのレノも、こと自分の仲間については甘くなるということか。
 だが、それを聞き入れるつもりはない。

「助けて」とアディーは言った。
 彼女を買い受けたレノの代わりに、身柄を引き取りに行った娼館で。
 歯の根も合わぬほど泣きじゃくり、追い詰められた壁際で。
 栄養不良か病のせいか、七、八歳の子供の頃に時を止めてしまったような、少女のようにはかない風情で。
 だから「守る」と約束した。
「大丈夫。僕を信じて。僕が君を守るから」
 冷たい風が徐々に去り、ようやく春が芽吹こうかという頃だった。
 薄日にたたずむ娼館の、昼の凪いだ廊下を歩いて、あの扉を開けた瞬間、すべての思考が凍りついた。
 運命が変わったのを、肌で感じた。
 そして、あの時、夢が死んだ。彼女が去ったあの時に。

「ほうっておけ」とレノは言った。
 事件を起こした連中を、訴え出る気はないのだと。すなわち体面を保ってやると。
「間違えるなよ。アルベール」
 あれはこの家の者じゃない。
 このラトキエの人間でもなければ、保護すべき使用人でもない。あれは買われてきたんだぞ。屋敷の単なる囲い者、いわば高級な奴隷の扱いだ。それに比べて、クレイが誰だか知っているか。ディール傍流パーカー家の跡継ぎだ。そんな相手を、表立って訴えてみろ。喧嘩を吹っかけるも同然だ。
 昨今、ディールの勢力が強い。閥族の不満をなだめすかして押さえ込んでいるこの時期に、よりにもよって、ラトキエ宗家が事を構えるわけにはいかない──。

 正論だった。
 無力だった。
 取り返しのつかない被害を受けても、文句の一つも言えはしない。

 歯を食いしばった目の端に、初夏の青芝が広がっていた。
 昼下がりの食堂の卓布が、日射しを白く弾いていた。半分だけ飲んだ珈琲カップ、灰皿でひしゃげた数本の吸殻。とうとう手もつけられず冷めてしまった食事の皿──。
 なんでもできると思っていた。
 手に入らぬ物などないと。だが、ひるがえって現実を見れば、あんなにもひどく傷ついた、娘一人守れない。

 あの時、はっきり自覚した。
 自分が切実に欲するものを。
 思うままに振る舞いたければ、どうしたって、それがいる。
 道理と信義を貫きたければ、どうしたって、それがいる。
 他人を強引に従わせ、捻じ伏せてやれるほどの権力・・が。

 元より叶わぬ想いだった。
 明るい未来など望まなかった。だが、ささやかな夢見る機会さえ、君に寄り添い語り合う、かけがえのない刹那さえ、彼の悪意は突き崩した。

 君を貶めた連中を、優しい君は許してやった。
 相手がレノの友人だから。買い受けられた身の上だから。もうすっかり諦めていたから。それでも──
 謝罪さえ求めぬ僕らを見て、君は何を思っただろうか。

「ほうっておけ」とレノは言う。
 だが、泣き寝入りなど、僕はしない。
 アディー。僕は、君のために戦う。

 扉を叩く硬い音。
 伺いを立てる控えめな声、先の従者だ。
 軍議開始の知らせと共に、強引に面会を求めてきたのは、華美な礼装に身を包む、恰幅の良い短身の男──その顔に内心、アルベールは眉をひそめる。
 男は晴れやかな足取りで入室し、広げた手を胸においた。
「遥かなる高みへのご到達、誠におめでとうございます」
「──気が早いな、ゲーラー侯。父はまだ存命ですよ」
 窓辺の机で指を組み、アルベールは笑みを絶やさない。
 目じりの下がったぎょろりとした目。笑みでゆがめた口元には、短いひげをたくわえている。
 閥族の一、ゲーラー侯爵。カレリア随一の権門勢家ロワイエ侯爵家に次ぐ大貴族だ。
「おっと。これは失礼を。しかし、あなた様こそ我らの誇り、この国の希望でございます。末永くご健勝であらせられますよう」
「ありがとう。そろそろ軍議が始まります。お話は道々伺いましょう」
 アルベールは早々に席を立ち、扉へ向かい、部屋を出る。
 静かな廊下を連れ立ちながら、笑みを含んで連れを見た。「それで貴公は、私に何をお望みかな」
「──これは存外お人の悪い。私の心はご存知のはず」
 抜かりない笑みを、ゲーラーは浮かべる。
「こたびの戦、ご下命とあらば、わたくし一命を賭しましても」
「ええ。期待しています」
 アルベールは忌々しさを押し殺し、廊下の窓から夏空を眺める。
 開戦の要件が整う前に、弓引く愚を犯したのは、このゲーラーだと聞いている。功を焦って先走り、トラビアに矢を射かけたのだ。
 この愚行のせいでラトキエは、落ち度なく厳正な完璧であるべき正当性に、ぬぐい難い瑕疵かしを作ってしまった。

 廊下は静まり返っている。
 バスラ近郊、トラビア貴族の館にいた。徴用するまでもなく、ここの主は屋敷の提供を申し出た。
 不意打ちで商都に攻め上ったディール宗家の暴挙については、閥族のどこも寝耳に水で、困惑しているのだという。追及すべくトラビアへ行ったが、ことごとく門前で追い返され、当主ニコラス=ディールには会えずじまいということらしい。

 つややかな飴色の扉を開けると、グラス片手に談笑していた礼装姿の数人が、一斉に席を立ち、低頭した。
 いずれの服にも大綬 と肩章けんしょう 、そして、肩には金銀糸の飾緒しょくちょ
 壁には《 天駆ける馬 》の黄金旗。ラトキエ領家の紋章だ。
 大広間のテーブルに、各々椅子を引き、着席する中、当座しのぎの執務室まで媚びへつらいに来たゲーラーが、窓辺の最前席へ、いそいそ急ぐ。
 座した背筋を厳かに伸ばして、上座に注意を向けているのは、ラトキエ門閥貴族たち。そして、本来、貴族の当主は、戦時の際の指揮官となる。
 大広間の上座から見て右手に当たる前方は、先のゲーラー侯爵家。
 向かいの左手前方は、名門ロワイエ侯爵家。席次は家格と序列を示し、そのまま戦地での布陣となる。
 宗家の当主代行として総指揮にあたるアルベールは、上座に着席、一同を見渡す。
「諸君。これから行われる我々の軍議で、今後の歴史が作られる」

 ディール討伐を議事とする、最終打ち合わせが始まった。
 左手最前のロワイエ家当主に、黒髪の青年が耳打ちしている。かのダドリー=クレストの友人にして、同家次子のラルッカだ。
 長子を差し置き軍議に列座するというなら、ロワイエ家の部隊の指揮は、ラルッカがとるということらしい。だが、一族の誰にも異論はなかろう。宗家に対する造反のかどで降格された侯爵家を復権するまで引き立てたのは、他ならぬラルッカの尽力によるところが大きいからだ。
 端正な顔を向けているラルッカの居住まいは、淡々と静かだ。
 トラビアの要塞に立てこもるダドリー=クレストの身柄の保証を一蹴された一件以降、ラルッカはすっかり大人しくなった。
 才気煥発かんぱつな男だが、婚約者を奪われたのは堪えたらしい。元々馬鹿な男ではない。手向かいは悪手と悟ったのだろう。そして無論、野心もある。
 だが、トラビアに対し、攻城兵器を使用する件に関してだけは、ひとり一貫して反対している。
 標的トラビアが「国境である」というただ一点の理由からだ。強固な街壁の破壊すなわち防御壁を失うに等しい愚行であると、断言して譲らない。
 軍議に集った会衆は、先の訴えを引っ込めた苦し紛れの言であろうと誰一人顧みないが、確かにそこには一分の理がある。
 だが、万全な砦に立てこもった敵を、戦の前線に引っ張り出すには、適宜てきぎ脅しも必要だ。

 静けさただよう館の一室、午後の軍議は粛々と進む。
 とはいえ、戦の粗暴さとは無縁の、優雅ともいえる進行で。きらめく指輪の手元には、グラスを満たす赤いきらめき──
 言いしれぬ心許なさが胸によぎり、アルベールは眉をひそめた。彼らは確かに謀略・駆け引きにかけては巧みだが、その手腕が用兵に、発揮されるとは限らない──。
 だが、とすぐに思い直す。指揮官の地位は決定事項。気をとられても詮ないこと。ここまで周到に詰めてきたのだ。敗れる要素はどこにもない。
 兵はすべて取り上げた。
 今や、ダドリーは丸腰だ。目端の利く男だが、手足を奪われれば、何もできまい。
 進軍に気づいて使者を締め出し、開戦を避けたまでは上出来だったが、開戦するにあたっての大義名分がこちらにはある。言わずと知れた「商都を急襲された報復」だ。
 いや、大義は元よりこの手にある。

 誰に咎められることなく放免になった二年前、さぞ、君はほっとしたろう。
 だが、一時たりとも忘れはしない。罪のない無力な娘に、君が狼藉を働いたことは。
 虚空を冷ややかに、アルベールは見つめる。
(覚悟したまえ。ダドリー=クレスト。君には相応の報いを受けてもらう)
 二年も経ってしまったけれど。アディーは既にいないけれど。
 首謀者クレイ=パーカーが、この世の者ではないとしても。
 貴族社会の体面で罪を裁けぬというのなら、名家いえの名を盾にして隠れ果せた卑劣漢と同じ土俵で・・・・・闘うまでだ。
 領土の統治を担う者が、あからさまな罪を正せずして、なんの正義があるというのか。
 これは、人の尊厳にかかわる問題だ。

 ダドリー=クレスト。君は大方、あの目立つ回廊で、一席ぶつ気でいるんだろう。
 楼門に押し寄せた軍勢を前に、あたかも自らが収める態で。
 先に戻った君の仲間が、了承を取り付けたと疑いもせずに。

 知っていたかい? ダドリー=クレスト。僕は君が大嫌いだよ。
 君が仕出かした悪ふざけで、アディーが危地に陥った時から。

 知っていたかい? ダドリー=クレスト。ラルッカの進言が一蹴されたと。
 無数の矢先を回廊で向けられ、予期せぬ渦中で、
 君はどうする?

 思索にふけった目をあけて、アルベールはおもむろに席を立った。
「諸君」
 両手の先を卓につき、一座に視線をめぐらせる。
「いよいよだ」
 いよいよ、トラビアへの総攻撃が始まる。
「我が国は三位一体を以って成る国。だが、我々は国賊を討たねばならない。この国に秩序を取り戻し、あるべき姿に導くために。我がカレリア国の明日のために」
 士気を鼓舞する背後には、ラトキエ領家の黄金旗。
 壁が遮るほのかな陰で《 天駆ける馬 》をかたどる金糸が、鈍く光を放っていた。
 ふと、窓辺の光を振りかえり、アルベールは目を細める。それは夏日に温まった窓の金具。あの頃のように光に満ちた──。
 彼女がいたあの日のような、高く、そして、青い空。また、夏のただ中にいる。
 風が往く。
 雲が往く。
 どうしても倒したい敵がいる。
 白い窓辺から目を戻し、一同の注目を見据え返した。
「諸君。反攻に転じる時がきた」 


 石段の中ほどで足を止め、ダドリーはいぶかしげに振り向いた。
「じゃあ、あんたが? カーシュが言ってた "助っ人"って」
「遅くなりまして。公爵閣下」
 革製の上着の三人連れ、その中の一人だった。
 駆け上がる背中を呼び止めたのは、あの黒いピアスの短髪か?
 乾ききった回廊には、夏日が容赦なく照り付けていた。天を仰いで顔をしかめ、ダドリーは腕で額をぬぐう。
 黒のピアスは見据えたままで、階段下に歩み寄る。
 にやり、と男が不敵に口角引きあげた。
「ギイと申します。お見知りおきを」
 
 
 

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