CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章25
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「……戻って、きちゃった……」
 あの"沼"に。

 見覚えのある"沼"にいた。
 音もなく、動かない。
 枯れ木が突き立つ水面みなもは澱み、すべてが薄灰で塗りつぶされた、陰鬱に死んだ無人の"沼"。
 馴染みのある場所だった。
 ずっと、長くここにいた。
 出ていけた、と思ったが、気づけば又、ここにいる。

 そろえてかかえた両膝に、のろのろ顔をすりつける。
 悔いが、ぐるぐる、一つ所をまわる。

 どんなに、どんなに考えても、想いはそこに辿りつく。
 無性に悔やまれてならなかった。思い出されてならなかった。
 じりじり蝉のに包まれた、あの正午の曲がり角が。
 ケネルを追って宿を出て、ふと、そこで足を止めた、夏日を浴びた町角が。
 右に曲がれば、飲食店。赤い鉄枠が小綺麗な、ケネルのいる洒落た店。
 曲がらず道なりに直進し、市場を抜けて通りを渡れば、セレスタンの行方を捜しているハジさんたちのいるラディックス商会。
 切り株に座って、迷っていた。夏日に溶けそうな町角を睨んで。変哲のない昼時で、子供の遊ぶ声がして、煮炊きの匂いが漂っていて──。
 ──あのパン、ケネルに、あげればよかった……。
 そうしたら彼は、死なかったのではないか?
 自分が食べてしまったからだから死んでしまったのではないか彼のために買ったのに自分が食べてしまったからあの時パンをあげていたら、
 ──あのパンさえ・・・・・・、あげていたら!
 じくじく脈うつ、けれど致命的な痛みのかたわら、堂々めぐりで固まった頭が、認めることを拒んでいた。
 けれど、動かしがたい現実が、どうしようもなく押し寄せる。世界のどこを探しても、あのケネルは、
 ──もう・・いない・・・

 凍りついた茫洋の彼方で、ガタン、と硬い音がした。
 よどみが動き、掻き乱される。
 濃い霧に沈んだ頭が、少し遅れて異変を捉えた。部屋の中に、誰かの気配──。
 気だるくあげた視界の床を、かかとを踏んだ布靴の足が、なすすべもなく通りすぎる。
 シャッ──と切るような音がした。
 不意のまぶしさに顔をしかめて、エレーンは思わず光をよける。
「もう、そろそろ行かないとー」
 夏の日射しに包まれて、彼が窓辺で振り向いた。
「行くんでしょー? トラビア」
 
 
 
「──直訴?」
 階段を降りた足を止め、そう言った相手を見返した。
 青く晴れた北の空、王都のある方角を、ダドリーは眉をしかめてながめやる。
「だよな」
 にやりと笑って目を戻し、助言をしたその顔を見つめる。
「俺も同じことを考えてた。ラトキエの進軍を止められる者は、領家同士の諍いを収拾できる者は限られる。つまりは領家と同格以上。だが、ディールの当主は既になく、領家の一とはいえクレストでは、ラトキエを押さえるには力不足だ。そうなると、国を統べる王しかいない」
「権威の壁に破るには、より大きな権威に頼る──すなわち、手札がない時は、さらに大きな・・・・・・くくりを描いて考えればいい」
 さらりと概括、相手の男は笑みを浮かべる。「噂の通り、ご聡明で」
「……馬鹿にしてる? 俺のこと」
「滅相もない」
 高くそびえる石壁の元、真夏の濃い陰の中で、薄く笑みを浮かべているのは、ラトキエ軍への呼びかけに「待った」をかけた黒ピアスの男。
 カーシュが寄越した「頼れる助っ人」 都市同盟と帝国の諍い続く隣国で、帝国の侵攻を押し止め、東西の境の前線を守る、傭兵団の参謀ギイ。
 彼の部下らしい連れの二人は、何事かギイから指示を受け、いずこかへ速やかに姿を消した。職人めいたキビキビした動きで。ざっくばらんなカーシュとは、同じ傭兵でも雰囲気が違う。
「で、こっちは何を、すりゃあいい?」
 不意の声を振り向けば、かたわらに青い軍服の男。にやりと笑い、やってくる。
「もっとも、しがない守備隊風情が、訓練された正規軍を相手に、どこまでやれるか怪しいが」
 四十絡みの銀縁めがね。黒い髪のオールバック。
「あーっヒース! 丁度よかった!」
 相手を認めてダドリーは破顔、「早く、早く!」と手招きする。
「この人、ギイね! カーシュんとこの参謀の!」
「──いや、参謀って、お前」
 くいと、ヒースが銀縁の向こうで片眉をあげた。あぜんと信じられない顔つきになる。
「ほら! 誰か助っ人寄越すって、出がけにカーシュ、言ってたじゃんか」
「だが、奴の仲間の下っ端ヒラならともかく、そんな上位の指揮系統の、しかも "ギイ"って、あの"ギイ"だよな……?」
 戸惑いがちにギイを見て、意外そうな顔で腕を組んだ。
「こんな大物を寄越すとは。張り込んだもんだな、赤いの・・・も」
 そして、歓迎の笑みで腕を解く。
「何はともあれ、よろしく頼む。軍師様がこっちにつけば、弱小陣営も百人力だ」
 当のギイは、じっとその顔を見つめている。
「──なるほど、あんたが」
 つぶやきに、ヒースがまたたいた。「その今の、なるほど、ってのは?」
 構わずギイは話を始める。
「では、閣下の警護は一任しよう。それと、警邏と手分けして、街の警備にあたってくれ。有事の際の措置はわかるな。よろしく頼むぜ、アーノルド・・・・・ヒース・・・
 ぎょっとヒースが見返した。
「……あんた、俺のこと知っているのか?」
「国境守備隊の現副官。ドレフの錬兵所では教官を務めた、技巧で知られた剣の名手。だが、上官を殴って左遷とばされたとか」
 あぜんとしばし絶句して、ヒースがガシガシ頭を掻く。
「おい、嘘だろ。初対面だぜ。なんで知ってんだよ、そんなことまで」
 たじろいだように顔をしかめて、詰め所に向けて踏み出した。「じゃ、ちょっと行って指示してくるよ」
 夏日を浴びた無人の街路を、背中で手を振り、歩いて行く。
 その背をダドリーは見送って、はた、とまたたき、動きを止めた。
「ん? ギイと同じことを考えてたってことは……?」
 破顔一笑、己をさして振り向いた。
「俺も軍師になれるってことっ?」
「──それは、いささか早計かと」
 あっさり苦笑でいなされて、むに、と口を尖らせた。
「公爵閣下におかれましては、職責を全うされますよう」
「あっそう。だったらこれは知ってるか? ラトキエに戦を仕掛けたのは──」
「領家の秘書官ネグレスコとか。その行方を捜しつつ、王都の介入を待っている、そうした報告を受けております。しかし閣下、待つだけでは不十分かと。籠城して時間を稼ぎ、後のことは運任せ・・・では」
「運任せじゃない。ラルがいる」
 ダドリーは即答、腕を組む。
「その辺りのことは考えているさ。あいつが必ず王都を動かす」
 王都への出入りは難しく、まして、直訴は厳しいが、ラトキエ領家は三領家の筆頭。王都と市井の橋渡し役を担っている。その伝手つてを用いれば、直訴も夢ではないはずだ。
 ギイは相槌、うなずいた。「ロワイエ侯爵家のご子息は、こちらとしても頼みの綱です。ご婚約者にご協力いただき、渡りを付けておきました」
「え、もう?」
「つきましては閣下にも、一つご協力いただきたいことが」
「俺のことなら、どう使ってくれても構わない。領民が無事なら、なんだってするさ。ここまで拡大した騒動を、どうにか収められるなら」
「では、終結の宣言を」
「──宣言? 俺が? けど、俺は他領の領主だからさ、勝手な真似をするわけには」
「戦を完全に終わらせるには、終結の宣言が必要です。誰かが・・・幕を引かなければ」
 言われて、ようやく思い至った。戦の当事者ディールの領主は、すでにこの世にいのだと。ニコラス=ディールその人は。
「では、時機をみて声をおかけするので、それまで閣下は副官とともに、円塔内の安全な場所に」
「いや、円塔はかえって危なくない? 他より壁が薄いから、あんなのの直撃食らったら、一発で穴が開きそうだし。投石器だろ、向こうにあるの」
 砂塵吹き荒れる平原の彼方に、大きな塊が出現していた。それについては、見回りの際、街壁の回廊から確認している。
 事もなげにギイは笑った。
「ご心配なく。そんなものは使わせませんので」

「なあ。悪いけど、煙草ある?」
 懐を探ったギイから受け取り、煙草の先に火を点けた。
 真昼の静かな陰の中、ギイと二人、石壁にもたれて喫煙する。部下に役目を指示しに行った、ヒースはまだ戻らない。
 これまでの経緯いきさつや避難民の様子など、ぽつりぽつりとギイに話した。ちらりと顔を盗み見る。
 口元は笑みを作っているし、丁寧な言葉で丁寧に応じる。だが、決して心には踏み込ませない。そういう横顔。慇懃無礼というのではなく、力の加減を心得た──。
 領土を治める者ならば、誰しもその名は知っている。隣国傭兵団を取り仕切る、英明で名高い軍師ギイ。広大な領土の東西に分かれて内戦が続く隣国で、国軍の苛烈な侵攻を一歩も許さぬ切れ者の……。
 密かに探るのを断念し、ダドリーは嘆息まじりに笑みを作った。
「──まさか、実物に会えるとはね」
 巷の勇猛な評判から、どんな豪傑かと思っていたが。
 すらりと長身、黒いピアスに洒落た短髪。どこか飄々としているが、どんなにうかがっても隙がない。頭の中はまるで読めない。
「いやー。カーシュたち雇っといてマジ良かった。商都に送ってもらうだけのつもりが、ここまでしてもらえるなんてさ」
 頑丈な石壁の頂きを仰いで、夏日の眩しさに目を細める。
「城にこもって大分経つし、領民も兵も不安だろうし、でも、王都に動きはさっぱりなくて。そうかといって籠城していちゃ、ラルの様子も聞けないし。もういっそ一か八か、回廊そこからラトキエに呼びかけて説得しようと思ってたとこでさ。そうしたら丁度、あんたらが来て。ていうか」
 しげしげギイの顔を見た。
「物好きだよなー、あんたらも。いくらカーシュの頼みだって、陥落寸前のこんな砦に。しかも、参謀自らさ。生きて帰れた暁には、報酬に色を付けなくっちゃな」
「では、姫君の一人、サビーネを私に」
 面食らって、ギイを見た。
「……サビーネを?」
 思いがけない申し出に、ダドリーはたじろぎ、目をそらす。「けど、俺の一存じゃ──」
「広い世界を、見せてやろうと思いましてね」
 笑って、ギイが空を見やった。
「籠の鳥のお姫さんに、見たこともない、でっかい空を。ここだけの話、サビーネは、閣下にはもう用済みでしょう。庶子を儲け、領邸には正妻も迎えられた」
「つまり、サビーネも、望んでるってこと?」
「はい」
 即答した男の顔を、まじまじと見つめる。屋敷に引きこもったサビーネとは無縁の、遠い隣国の参謀が、なぜ、そんなことを言い出したのか。そういえば、今、領土には、日ごろ彼が指揮する部隊が、隣国の傭兵がいたはずだが。
「──そっか」
 遅まきながら事情を察して、苦笑いで頭を掻いた。「さぞ、ひどい奴だって言ってたろうな、俺のこと」
「そんなことは一言も。彼女に何かしましたか」
「した、なんてもんじゃない」
 空を仰いで、目を細めた。
「商都に戻って、帰らなかった。エレーンを連れて帰るまで、何年も長い間。身寄りのないサビーネは、俺だけが頼りと知っていたのに。俺がいなけりゃ一人になるのは、わかりきってたはずなのに。もちろん、嫌いなわけじゃない。子供と一緒の姿を見れば、畏敬の念さえ覚えるよ。だけど──」
 彼女が身ごもったと知った途端、彼女に対する興味が失せた。
 ふっと正気に返ったように。まるで、憑き物が・・・・落ちたように・・・・・・
「わかってる。ひどい奴だと自分でも思うよ。サビーネにはひどいことをした。だから、他の誰とも話せずに屋敷の中に閉じこもって。むしろ、恨まれて当然だな」
「慕っていますよ、閣下のことを。思わず・・・嫉妬を覚えるほどに・・・・・・・・・ね」
「……え?」
 面食らい、ダドリーは言葉を呑む。ギイがさばさばと口調を変えた。
「それじゃ、あまりに不憫でしょう。飼い殺しの籠の鳥を、俺は飛ばせてやりたいんですよ。広い空を、自由にね」
「──自由に、か」
 くすりと、思わずダドリーは微笑った。この名高い参謀が、何をしに来たのか、わかってしまった。
 そして、その想いには覚えがある。あの日の友の胸中を知り、鈍く、甘く、胸が疼く。すべてが過ぎた今になって──。自然と微笑が頬にこぼれた。
「わかったよ。話を呑もう」
「ありがとうございます。かくなる上は、万事私にお任せを。このトラビアを保全して、戦を収めて御覧に入れます」
「──文句ひとつ、言わなかったんだよサビーネは。知らない土地に一人でやられて、見も知らない俺の所へ、無理に連れて来られたのに。だから、望みがあるなら叶えてやりたい」
「感謝いたします、閣──」
「けど、その代わり!」
 煙草を投げ捨て、ぎろりとギイを振り仰いだ。
「路頭に迷わせたら承知しないぞ。あんたを信じて任せるんだからな。あんた女にもてそうだけど、サビーネを捨てたら許さないからな。別に女ができたとしても、サビーネだけは蔑ろにするなよ。子供の頃からこもってて一人じゃ道さえ歩けないんだからな。もし粗略に扱ってみろ。てめえ一生許さねえからそう肝に命じておけよっ!」
「……。閣下。本当によろしいので?」
 前のめりで拳を握り、食ってかかった己に気づいて、そそくさ拳を引っ込めた。
 じとりとギイは疑いのまなざし。
「……いいよ。サビーネはあんたにやる」
 尻ポケットに両手を突っ込み、空を仰いで、息を吐いた。
 眩しい夏日に苦笑いする。
そのために・・・・・来たんだろう? わざわざ、こんな所まで」
 常なら後方に控えている参謀自ら危険を冒して。
 間近に迫った軍勢を斥け、事態を収拾するという、桁外れの手札を引っさげて。
 
 
 

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