■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章28
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ふっくらした頬の線。
細い髪の毛、長いまつ毛。身の丈に合わない、ぶかぶかのズボン。六歳に満たない幼い女児──いや、男児だろうか。
風になぶられる回廊の、のこぎり型の狭間に張りつき、下界を見ている子供がいる。細く素直な薄茶の髪を、強い夏日に輝かせて。
戦場を見渡す回廊には、いかにも場違いな存在だった。
すでに、この防衛線にいるのは、石壁に潜む射手くらいのもの──。物陰に潜んで狙いを定める、物々しい回廊をながめ、ふと、ユージンは合点する。
あのザルトの街道出口で、丁度出くわした参謀が、奇妙なことを言っていた。今「子供を連れている」と。
当てにしていた子らが死に、ついでに連れてきた子供の方が、皮肉なことに生き残った。今となっては、いわば、お荷物。なにせ、口さえ、まともにきけない──。
だが、とユージンは顔をしかめる。
「連れてくるなよ、ガキなんか」
ギイは優れた軍師だが、戦の場数を踏みすぎて、感覚が麻痺しているらしい。
俯瞰の利く回廊は、戦況を見るにはうってつけだが、逃げ足の遅い子供には不適だ。分厚く高い街壁は、なるほど侵攻を阻むだろうが、いつ何時雨あられと、矢が降り注がぬとも限らない。
無心に下界を覗き込む、華奢な子供を密かに憐れむ。子供に対する傭兵たちの、日ごろのぞんざいな扱いが知れた。
だが、子供にかまけている暇はない。砂風吹き荒れる荒れ野では、ラトキエの進軍が始まっているのだ。まさに、この街壁めがけて。
砂塵に煙る青い軍勢。
黄金の旗がひるがえる。その意匠は《 天駆ける馬 》
荒れ野を埋め尽くしたそこここに、一門を示す淡黄色の旗幟。
攻城兵器の車輪を押して、カレリア国軍の統一色、青の軍勢が徐々に近づく。
この高みの回廊からは、くまなく様子が見渡せる。もっとも、戦局を見に来たのではない。図らずも、この場にいるのだから。
少し前まで、ラトキエの陣営を探っていた。
目的はむろん、彼女を脅かすレノの排除。彼女への危害を阻止するためだ。
途上でレノは「呼びつけられた」と話していた。ラトキエを指揮する総領息子アルベールに。どうやら、あの極楽とんぼは、ラトキエ直系の務めも果たさず、逃げ回っていたらしいのだ。
だが、平時というなら話はまだしも、今は未曾有の緊急時、この呼び出しを無視すれば「怠慢」の謗りを受けるだけでは済まされない。
それで住み心地の良い商都を出、渋々出向いてきたのだろう。つまり、レノの目的地は総領のいるラトキエ本営。
だが、探りを入れるも決まって不在で、はかばかしい成果はない。
数万規模の陣営の端は、広大な平原にあってさえ、隣の町にまで優に及ぶ。その上、人は移動する。そもそも、あの遊び人が腰を落ち着けているだろうか。汗とほこりで薄汚れた、むさ苦しい陣営などに。まして、むざむざ危地に居続け、不利益を被る間抜けな真似など。総領のいる本営は、軍勢の中程より後方だが、それでもやはり、戦地は戦地だ。
もしや、総領を言い包め、とうに羽を伸ばしているのではないか? どこか近場の快適な宿で──。
砂塵吹き荒れる陣営からの移動を考えたその時だった。直後、別の考えがよぎった。
──今なら "トラビア"も可能では?
このところの波動の乱れに乗じれば。そもそも本来、カレリアに出向いた目的は、怪しい瘴気の出所を突き止め、対処法を探るため──。
勘のようなものだった。
特に期待も気負いもなく、直前で何気なく出口を変えた。
いともあっさり、回廊に出た。拍子抜けするほど造作もなく。通過に伴う負荷どころか、抵抗さえ感じることなく。
一歩、平地に踏み出した、それくらいの安易さだった。むしろ、手ぐすね引いていた何者かに、引っぱりこまれでもしたような。
常とは異なる様相に、かすかな不審を抱きつつ、回廊にいた参謀ギイから、現状報告を一通り受け、怪しい瘴気の出所らしい、堅牢な古城へ足を向けた。
その道の先に、少年がいた。
面食らうほど細い背の、光に包まれたような少年が。
風がごうごう唸りをあげた。
木立が荒々しく打ち鳴って、引きちぎられんばかりに揺さぶられている。
突風に髪を掻き乱されて、ユージンは思わず顔をしかめる。乾いた砂を巻きあげて、突風など吹こうものなら、ろくに目も開けていられない。他人事ながら、なるほど難儀だ。砂嵐の坩堝で隊列を組み、攻める側のラトキエは。
そういえば、レノを捜索中、ラトキエの陣で特務を見かけた。そろそろ開戦という時に、なぜ敵陣などをうろついていたのか。軍服で兵に成りすまして。
ふと、ユージンは足を止め、灼けた石壁の手すりを見た。
影がよぎった気がしたのだ。正午すぎの東にできた濃い陰の上を。
一瞬、生き物のようにうごめいて、瞬時に上空へ駆け抜けた。強い陽ざしの残影か、と顔をしかめて瞼をぬぐい、影が走った空を見る。
怪訝に、ユージンは眉をひそめた。
白く輝く夏雲の表を、黒い影が這っている。そう "影"だ。長い胴には四肢があり、その先には鉤状の爪。進行方向、厳つい頭部で、ゆらり、と長い髭が揺れる。あの特徴的な形状は、まさか──
「竜、か?」
だが、本体は見当たらない。影のみが、そこにある。
"影"が舐めるように滑空した。突風をまとい、地表に近づく。周囲の山肌から囲い込むように、戦場を囲む山岳を、ゆっくり大きく這い進む。狙い澄ましたように降りてくる。空から東の山腹へ。街道の伸びる荒れ野の南へ。そして──
進路をユージンは目で追って、風の先に目を凝らす。砂で煙る下界の荒れ野、街壁をかこむ掘沿いに人影。白シャツの男と、もう一人──
その身なりに息を呑んだ。
「なぜ、そこに……」
茶色く煙る砂塵の先に、愕然とユージンは目を凝らす。遠くて顔まではわからない。だが、白襟紺服はラトキエの──。
先のギイの報告にあった。あの彼女の服装が。ラトキエ領邸のメイド服と。
元よりこんな嵐の戦地を、メイドが歩いている道理はない。つまり、あれは他ならぬ、クレスト夫人エレーンだ。
だが、ラトキエ総領アルベールに囚われたと聞いている。身柄は戦後、交渉によって、領主に安全に取り戻させる、そうした手筈になっていたはず。
だが、現に、そこにいる。
不運にも、竜の進路の先に。いや、たまたま、そこにいたのではない。明らかに竜は狙っている。まさしく彼女を喰らおうと。
くっきりと明確な、鋼のような意志を感じた。
竜が粛々と彼女に迫る。獲物に狙いをつけている。このままでは──。
眼下の人影を凝視して、ユージンはやきもき爪を噛む。彼女は何も気づいていない。影が接近していることに。影に喰われるなど突拍子もないが、そもそも、砂嵐の渦中にいて視界が十分きかないのか。
「──どうする」
近くに降りて避難させるか。
瞬間移動先を探すべく、下界に視線を走らせる。青い軍勢の前線まで、荒れ野は一面ゆるい起伏。だが、身を隠せるほどの岩はない。悪いことに、これだけ大勢がひしめいている。考えなしに降り立てば、すぐにも誰かの目に留まる。この砂風も盾にはなるまい。
ぐんぐん影が彼女に近づく。
牙を剥いた顎をあけて。まさに彼女を呑みこまんがために。
(──よせ!)
灼けた石の手すりをつかみ、ユージンは目をみはって乗り出した。指の先に力がこもる。
バクン──と顎が空を切った。
なぶるような突風をこらえて、しゃにむに下界に目を凝らす。砂風煙る薄茶の地表で、白いシャツの男の腕が、辛くも彼女を引っ抱えている。
ほっ……と安堵の息が漏れた。なんと、偶然に救われたか。竜の接近の風圧で、彼女がよろめきでもしたらしい。だが、次も同じとは限らない。
ピシリ──と大気が頬を打った。
大気が張り詰め、鳴っている。髪が風になぶられる。通過がもたらす風圧をこらえて、視線を空に振りあげる。
竜巻となって天空に昇った竜の影は、夏雲の上を徘徊していた。鎌首もたげ、彼女を見ている。なぜ、不首尾に終わったか、理由を考えているように。
ぞろり、と胴をひるがえした。
長い胴をうねらせて、雲の表を移動する。
巨大な影をユージンは見据え、《あわい》に送ることを考える。衆人環視の只中だが、もう、悠長なことは言っていられない。彼女を避難させるにしても、とどのつまりはその場しのぎ、逃げまわるにも限度がある。人の足と影とでは移動速度が違いすぎる。問題は、あんな巨体を扱ったことがないことだが──。
戦場を囲む山岳の上を、影はゆっくり這い進む。舌なめずりでもするように、狙い澄まして降りてくる。空から東の山腹へ。街道の伸びる荒れ野の南へ──
ユージンはおもむろに目を閉じた。
気を静めて、詠唱を始める。利き手が徐々に熱を帯びる。萌黄の焔がほとばしり、髪の先が浮きあがる。気が蓄えられていく──。
はっと気がついて目を開けた。
あの影を《あわい》へ送る? そんなことは不可能だ。影はいわば、単なる
──"色"だ。
灼けた手すりに取りついて、なすすべもなく固唾をのんだ。
突風と共に飛来した、影の顎が再び迫る。通過の風圧が、波のように広がる。
巨大な胴が、夏空にうねった。
大地を揺るがす低い咆哮。一瞬、何が起きたかわからない。今の、弾き飛ばされたような急な動きは──
眼下を見れば、彼女は無事だ。まだ、同じ場所にいる。あの白いシャツと二人、薄茶の砂風に揉まれている。
ぞくり、と怖気に背筋をなでられ、ユージンは向かいに目をあげた。竜とは別の、巨大な気配。
青い軍勢の上空に、巨大な雲の塊があった。いや、あれは雲ではない。
それは鳥の形をしていた。翼を広げ、巨鳥が空に留まっている。もしや、竜を弾いたのは、あの──。つまり、攻撃に割り込み、阻止したというのか。
こんな異常事態というのに、下界からの声はなかった。
誰ひとり、気づいていない。空前絶後のこの事態に。巨鳥を上空に戴いた、荒れ野の者は誰ひとり。誰にも見えていないのだ。己の頭上の巨大な鳥が。いや、ただの鳥じゃない。桁外れな大きさもさることながら、
「あれは──」
記憶の底に、その影があった。普段は立ち入ることのない、非日常の基底の領域。
ユージンは絶句した。《あわい》の混沌にうずくまる姿を、何度か見かけたことがある。大地を統べる霊獣の姿を。それは、この時空の意思。いわば、このセカイそのもの。だが、異空の界主が、なぜ、ここに──。
《 やあ、ポイニクス 》
鈴を振るような声がした。
無自覚な胸の奥底から、後追いで記憶が涌きあがる。そう、そうだった。「ポイニクス」とは巨鳥の真名だ。意識に直接呼びかけたのは、音をもたない少年の声。
その存在を思い出し、愕然とユージンは振り向いた。ならば、あの霊獣を、あの子供が、
──呼び出したというのか。
空に雷鳴がとどろいて、するする竜が降下する。邪魔立てした巨鳥の向かいに。
ぐにゃり、と大気が熱波でゆがんだ。
巨鳥が羽ばたき、白銀に輝く。
軍勢広がる上空に、竜と巨鳥が対峙する。
怒りに燃える双眸が、爛々と向かいを見すえている。
砂風舞い立つ戦場に、竜の咆哮がとどろいた。
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