■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章38
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切りそろえた前髪の下、凛と冷ややかな光をたたえて、緋色の瞳が見つめていた。
黒い髪がつややかに流れ、豊かに波打ち、うち広がる。
威風堂々と、そこにいた。
気を漲らせた、あでやかな美女が。
昔話の衣装のような、布をふんだんに使った衣服。黒髪のかかる純白の上衣。丈の長いスカートの裾は、素足の甲を覆うほど──いや、深紅の豊かなあの襞は、幅の広いズボンだろうか。
細い腰に豊満な胸。艶めかしい赤い唇。凄みと風格を備えた美貌が、夜空のような闇の中、凛とほの白く輝いている。
すっ、と大気が澄み渡った。
たたずむ彼女を中心に、澱みがさざめき、うち払われていく。波のように行き渡り、見渡すかぎり隅々まで。
祓い清められた空間が、しっとり清浄で満たされる。女の赤い唇がひらいた。
「どこへ行った。あの戯けは」
じろりと苛ついた一瞥をくれる。
業を煮やしたこの口振り。逃げるように姿を消したアディーの直後に出現したなら、捜しているのはあのアディー? 見渡すかぎりここは無人で、選べるほど人はいないし。
怒気をたぎらせる顔色を、愛想笑いでぎくしゃくうかがい、ひとまず上目遣いで訊いてみた。「あ、あの〜? どちら様で……?」
「なにを今さら寝ぼけたことを。ずっと共におったろう」
度し難いというように、顔をしかめた黒髪の美女に、へ? とエレーンは己を指さす。思いもよらない変化球の告白……
いや、断じて知らない、こんな女は。こんな目力の強い女が横にいて、気づかなかったら眼医者へ行くべき。
「お前のことなど、どうでもよいわ。我の問いにさっさと答えよ。今ここにいたあの
……えっと、とエレーンは頭を掻いて、闇の宙空をそろりと見まわす。「や。──なんかあの子、消えちゃって。何が何だか、あたしにもさっぱり」
「隠し立てすると為にならんぞ」
「……。隠してませんて」
たじろぎ、しどもど引きつり笑う。むしろ、どこへ隠すというのか。遮る物一つない、こんなだだっ広い宙空で。
じろり、と女が不愉快そうにねめつけた。
「何をへらへら笑っておる」
「──あっ、いえっ」
ゆるんだ顔をあわてて引き締め、エレーンはぶんぶん片手を振る。愛想笑いは気に食わないらしい。「あっ、いえ、その〜──あ、変わったお召し物ですね、それ」
「袂がそんなに珍しいか。そんなことより、お前のせいで」
長い袂をすげなく払って、女が苦々しく顔を見据えた。
「お陰で、近侍を取り逃したわ」
エレーンはぱちくり「……あたしぃ?」と指さす。非難の矛先が飛んできたが、それも初耳、覚えはない。てか、知らない話が多すぎる。
女はひとりぶつぶつと「せっかくの上物であったのに──」と己の拳に悔やんでいる。
返す返すも、というように諦めたように嘆息し、ちら、とあてつけがましく顔を見た。
「ま、仕方あるまい、これではな。かように貧弱な肉付きでは、彼奴の色情も失せるというもの」
「ちょっとお!? 聞き捨てならないんですけどー! あたしのどこが貧弱よっ!」
まなじり吊り上げ、断然抗議。売られた喧嘩は買うもちろん。ちなみに女のこの口振り、男に迫って振られたらしい。
女は構わず、苦々しげに眉根を寄せる。
「何ゆえ我が、無為に無聊を託わねばならぬ。かようにつまらぬ小娘のせいで」
「ね、貶した? 何気に貶したよねあたしのこと! なあんで、あんたに、貶されなくっちゃなんないのよっ!」
話はさっばりわからないが、悪口言われたことだけはわかる。
だが、女の嘆かわしげな嘆息はいっそ、ミジンコ風情、眼中にない とでも言わんばかり。
「しかし、国主も運のない」
案の定、あっさり話を変えた。
「かようにつまらぬ小娘のために。いや、国主の運のないところは、今生の生を享けた早々、あの禁忌に見つかったことか」
美貌に掃いたわずかな歯がゆさが鳴りをひそめ、難しい顔で柳眉をひそめる。
「よもや《 あわい 》へ追い落とそうとはな。──禁忌に睨まれては、総じて非力。いかな国主とて太刀打ちできまい。ケチのついた今生ならば、いっそ見限るも妙案か」
つかの間、女は考えに耽り、呆れたような目を向けた。
「いい気なものよ。良心の呵責はないとみえるな」
「──なんで、あたしがー?」
むっとエレーンは拳を握る。
「他人の定めを国主に押し付け、この《あわい》へ追いやったろうが。何の咎もないというに」
へ? とエレーンは面食らった。押し付ける? 咎がない……?
刹那、誰かの面影がよぎるが、深い靄の向こうにいて、その正体はわからない。
徹底抗戦の気勢が削がれて、そろりと上目遣いで女を見た。「や。悪いんだけど、なんの話か、あたしにはさっぱり──」
「まったく、なんたる太々しさよ。この期に及んで往生際の悪い。──いや、」
腹に据えかねたように女が吐き捨て、ふと、合点したように目をあげた。
「なるほど、暗示か」
「……暗示?」
「わからぬか。忘却の暗示だ」
女はにべもなく言い捨てて、しげしげ改めて顔を見た。「一時は《 あわい 》に引きこんで、道連れにしようとしていたようだが」
どこまで人がいいのやら、と眉をひそめて虚空につぶやき、鋭いまなざしで振り向いた。
「よもや、これで免れたと、図に乗っておるのではあるまいな」
「な、な、なによー。あたしが悪いことでもしたみたいに」
「そも、盗みを働いたのは誰じゃ。あの日、領主の執務室で」
うっ、とエレーンは顔をゆがめた。しかも、勝手に持ち出した石は、今や破裂して返却不能。
「未着であった不足は"二" 領主の分の穴埋めは、今しがた国主が肩代わりした。残るは一つ、お前の分」
「……あたし?」
「丁度良い。まさしく場も整っておる」
値踏みするように目を細め、女は赤い口の端をあげる。
「お前も存外、殊勝ではないか。自ら《あわい》へ赴こうとは。己が命を返上するというのなら、お前のその腹、掻っ捌いてくれようぞ」
「──ひえっ!?」
げっとエレーンは引きつって、腹を押さえて、あわあわ飛びのく。
すがめた眼に嘲りを宿して、女は酷薄な笑みを浮かべる。
「何を驚く。手を貸してやろうというのだ。それがお前の望みであろう」
「冗談やめてよ!? そんな訳ないでしょ! なんで、お腹裂くとか物騒な話に!」
「"契約の石" を取り出せば、お前は非力な一介の民草。《あわい》の気に触れたが最後、その身はたちどころに霧散する。恨むなら精々、小生意気な戯けを恨むことだな」
「あっ、やっぱ、八つ当たりっ!?」
「──なに?」
「なによ、アディーに逃げられたもんだからっ。てか、絶対あたしのこと嫌いよねアンタ。てか、どこの男に振られようが、そんなのあたしの知ったことじゃないしぃ?」
「な゛っ!?」
「だって、荒んでんの男のせいでしょー。もう未練たらたらじゃないよー」
「ばっ、馬鹿を申せ! 誰が彼奴に未練など! 元はと言えば、お前のその貧弱な──」
「いっ、言ったわねえっ! 一度ならず二度までもっ!」
ギッとまなじり吊り上げて、エレーンはあわあわ胸を押さえる。
「なあによ、巨乳だからって偉そうに! でも、ああら、おあいにくさま! それでも男が落ちなかったのよねー? そんな偉そうにふんぞり返って可愛げないから逃げられんのよっ!」
「にっ──!?」
長い黒髪の先端まで、女がふるふるうち震わせ、握った拳固をわななかせた。
「無礼な! 貴様に謗られる謂れはないわ!」
赤い裾を素足でさばいて、まなじり吊り上げ、ずかずか近づく。
めらめら燃え立つ怒りに任せ、片手で肩を引っつかむ。
「貧乳風情の分際で! 戯けも戯けなら友も友。何奴も此奴も碌でもない!」
つかみかからんばかりの勢いで、尖った爪を振りあげた。
「よくも我を愚弄したな! ただでは済まさぬ、覚悟せい!」
ひっ、とエレーンは目をつぶった。
まずい傷をえぐったらしい。てか、口喧嘩では勝ったっぽいが、
──あとさき考えるべきだったー!?
胡乱に獲物をつけ狙う不気味な風圧が巻き起こる。
首をすくめて激痛に備え、全身ガチガチに力がこもる。硬く目を閉じた暗闇の只中、己の腹に意識が集中。じぃっと身を硬くして、じぃっと、じぃっと硬くして──
……あれ? と眉根を寄せて首をかしげた。
しばらく待ったが、痛くない。お腹はまだ無事のようだし、手も足もついている。
ねー、もしかして気が変わったー? と、薄目をあけてそろりと見れば、女は無言で、あでやかな顔を歪ませている。
柳眉をひそめたその目はしかし、目の前のこちらを見ていない。振り上げた手も降ろされている。注視するようにすがめ見た先は、こちらの肩の向こう側?
女の注意を引かぬよう、首をゆっくり後ろにまわして、そろり、そろりとエレーンは身じろぐ。もしや、アディーが戻ってきたのか?
「──面妖な」
ぎくり、と即座に動きを止めた。
面食らったようにつぶやいた女の顔を盗み見れば、あんなに爛々と輝いていた瞳の鋭さが陰っている。
「しかし、ここに、どうやって──」
肩から女は手を離し、その手を思案気に口元で握る。ダッシュで突っ走っていかないところをみると、少なくとも"アディー"ではないようだが。
まずいことが起きたような、それがわかる困惑顔。だが、万能感あふれるこの美女に、どんな弱みがあるというのか。
女の豹変に注意をしながら、ようやくエレーンも肩越しに見やる。
彼方で、何かが蠢いていた。
先の蛇かと一瞬思うが、それは巨大でも長くもない。米粒大の黒い点。いや、あれは人影だろうか。
点にしか見えない遠い姿は、闇にあって尚黒い。
周囲に立ち込めた闇がざわめく。黒い人影の動きに合わせて。茫洋とした彼方から、こちらに向かい、歩いてくる。
だが、近づく気配が不思議とない。姿はしかと見えているし、明らかにこちらへ向かっているのに。あたかもこことはまた別の、繋がらない場所にいるかのように。
「しつこい奴よ」
女は忌々しげに吐き捨てて、形の良い眉をひそめる。「こんな所にまで入りこむとは」
煩わしげに息をつき、右の袖をおもむろにあげた。
その手を大きく、斜め下へと切り払う。
ざわり、と向かいの"気"が動いた。
ひっそり止まった無風の水面を、小舟の櫂で掻きやったように。
どこからか噴き出た奔流に、場が押し流されていく。
さ中にいる人影も、円の端にいるかのように、弧を描いてやや近づき、そのまま彼方へ飛ばされていく。
白い袂がひるがえった。
打ち払われた黒髪が、ばさり、と艶やかに打ち広がる。
ぱっ、と女が掻き消えた。
「……へ?」
エレーンはゴシゴシ目をこすり、顔をゆがめて眉根を寄せる。
またかい。
また消えた。忽然と。
なんて身勝手な連中だ。女を押し付けたアディーといい、今の高飛車女といい。まあ、ひとまず助かったわけだが──エレーンはげんなり額をつかんで、闇の広がる宙空を見まわす。
「もー。何やらかしたのよ、あの子ってば!」
知らない人に怒られた。どっか行ったアディーの代わりに。
危うくお腹を切られるとこだ。そんな物騒なとばっちりが、よもや己に降りかかろうとは。
脱出の手助けをしてくれたから、心強い味方と思いきや、とんだへなちょこ疫病神。てか、案外ちゃっかりしてんなアディー。
それまであれほど居丈高だったあの女が、取るものもとりあえず逃げ出した。遠くに姿を見かけた途端に。つまり、それほど会いたくなかった、ということか。
女が起こした奔流で周囲の闇が押しやられ、宙空一面うねっていた。
向かいも横も。上下も後ろも。連動して大きくたわみ、どこもかしこも歪んでいる。女が念を打ち出した起点の、わずかばかりの足元だけは、幸いうねりに呑まれずにいる。
《あわい》の闇全体が、壮大に場を移動していた。
ぐるりと場が一転し、その重厚な流れに乗って、彼方から何かが近づいてくる。
澄んだ川の流れの中、陽にちらつく魚影のように。だが、楽に目視できるそれは、川魚ほど小さくない。
近づく影に目を凝らす。
人影、のようだった。シャツとズボンの背中は男性。背を向けて佇んだ、黒い髪の後ろ姿。あれは──
はっとエレーンは駆け出した。
その腕に、とっさにしがみつく。
背中を向けて立った相手が、ふと、肩越しに振り向いた。
ぎょっとしたように後ずさり、たじろいだように、きょろきょろ見まわす。
「……あんた、どこから湧いて出た」
物の怪あつかいの言い草に、むっとエレーンは口を尖らす。
「なによー。来たのはそっちでしょー? あたしはここから動いてないもん」
「俺だって、一歩も動いてない」
星々またたく夜空のような、果ての知れない宙空で、思わぬ再会を果たしていた。
呆気にとられて絶句した、あのケネルが立っていた。
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