■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章52
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野ざらしになった青銅の椅子が、庭の隅に寄せられていた。
あけ放ったテラスの戸。乱雑に積まれた素焼きの鉢々。
鉄の格子で阻まれた、瀟洒な館の午後の庭。短く刈った青芝が、弱い陽ざしを浴びている。
ひんやり冷たい鉄格子に手を添え、裏庭の人影をエレーンはながめる。
大振りな籐椅子に、赤子を抱いて座っているのは、ラッセル家のふくよかな乳母。
赤子が元気に蹴り出すその都度、鮮やかな紐が足で揺れる。
執務室にあったミサンガを、見つけた途端に気に入ってしまい、片時も離そうとしないのだ。寝ている間に取りあげようものなら、火がついたように泣きわめき、なだめてもすかしても収まらず、ついに周囲が根気負けし、紐を足首に結んでやった。手首に巻くと、口に入れてしまうので。
「……じゃあね、ピーター。元気でね」
赤子に小さく手を振って、小声でそっと「バイバイ」と告げる。
途端、赤子が泣き出した。
そのすさまじい泣き方に、乳母が庭でおろおろしている。
苦笑でエレーンは眺めやり、静かな道を歩き出す。
こんなに遠く離れているのに、こちらの気配に敏感だ。去ろうとすると、すぐに泣く。
あの子はとても懐いてくれていた。むしろ、乳母に預けきりの母親よりも。
それまでどんなに愚図っていても、ご機嫌になって笑ってくれる。
ガラスのように透明な瞳で。
彼の母親マルグリッドとは、最後まで仲良くなれなかった。
やはり貴族の令嬢らしく、気位が高くつんけんしていて。
もっとも彼女は、ダドリーの元婚約者だ。彼女にすれば、こっちが横からしゃしゃり出たせいで破談になったわけだから、嫌われても無理ないが。
むろん、そんなこととは知らないし、立場を危うくする気など、これっぽっちもなかったが。
そして、もちろん彼女の方でも、そんなことはわかっている。北方貴族の内々の事情を、一介の庶民が知る由もないのだ。
でも、だからといって簡単に、水に流せるものでもない。
性格、相性云々ではなく、初めから無理な関係もあるのだ。
でも、そんなこんなの諍いも、収まるところに収まった、そんな感じ。
ざわり、と高い梢が騒いだ。
歩く地面に、木漏れ日が映る。午後の裏道はひっそりと、突き当りまで人けはない。
領邸で、大事件が起きていた。
第二次北カレリア戦の混乱に紛れて、ダドリーの嫡子クリードが行方不明となったのだ。
だが、誘拐ではないらしい。それからすでに半年経つが、以降なんの音沙汰もない。
当時、あの館には大勢の使用人が詰めていて、玄関には守衛が立ち、窓も裏門も施錠していた。
クリードの母親サビーネの実家が血眼になって捜しているが、忽然と消えたクリードの、その行方はようとして知れない。
このまま戻ってこなければ、クレスト領家次期当主の座は、ピーターに移ることになる。
その母親マルグリッドの実兄、ダドリーの片腕ラッセル伯は、常にダドリーと一緒だし、折しも貴族の顔ぶれを一新したばかりのこの時機だ。ピーターの外戚ラッセル家が権勢をふるうことになるだろう。
クリードの母親サビーネは、すでに恋人と館を出ていた。
その相手はあのギイさん。館に引きこもるサビーネと、隣の国の部隊の参謀、まるで接点のない二人だが、二度目の侵攻に遭った際、残留していた傭兵部隊をチェスター侯が雇った縁で、知り合ったという馴れ初めらしい。
まったく人生、何が起こるかわからないものだ。
あの昨年の終戦を境に、人も状況も目まぐるしく変わった。
そして、何より街の様子が。
カラフルな風船が空に飛ぶノースカレリアの街中では、道化師が後をつけ回しては観光客の真似してからかい、大人の身長二人分ほどもある背高の足長が回遊する。
大通りではジャグリング、仮面をつけたパントマイム、弦をつま弾く吟遊詩人。
大道芸を眺めやる店主の顔も和やかだ。常設された興行小屋には、笑顔と嬌声が満ちている。
幌馬車興行の宣伝の成果か、街の知名度が一気に上がり、この「芸能の都」への観光客が引きも切らない。
その移動に伴って、沿道の町村も常時潤い、出稼ぎに出ていた若者たちも、故郷の活況を聞きつけて、ちらほら戻って来ていると聞く。
ほんのつい昨年まで、大陸の端に取り残された旧港湾都市でしかなかったノースカレリアが、今では、国境と中央を押さえる二領家に迫る勢いだ。
けれど、今日、領邸を出た。
荷物はもう運んである。
家出の話を持ちかけると、マルグリッドの兄ラッセル伯は、満面の笑みで受け入れた。
『 そうですか。それは残念です。では、新しい身分証を用意しましょう。無論、十分な支度金も 』
協力を惜しむはずもない。領主夫人の座があけば、晴れて妹が座れるのだから。
彼は終始上機嫌で、万事そつなく計らってくれた。ダドリー当人に知れられぬように。
そう、家出は謁見の前がいい。
マルグリッドのためにも。ダドリーのためにも。そして何より自分のために。誰にも傷を残さずに済む。これで、すべて元通り。
第二夫人を領邸に迎えるとダドリーが言った時、もちろん驚いて抗議した。
だって、それでは話が違う。でも、こちらの顔色をうかがうような彼の言い訳を聞いている内に、すっかり気力が萎えてしまった。
胸にうっすら広がったのは諦め。
──ああ、この人には、何を言っても無駄なんだ……。
鈍感だとか、狡猾だとか、そういう類いのことではないのだ。
彼とは元々の土台が違う。悪意のないダドリーには、生涯かけても分からないだろう。その手酷い裏切りが、どれほど相手を傷つけるのか。けれど──
なぜだろう、心が動かない。
ラトキエの大軍を前にして、死に物狂いで頑張った。
他でもないダドリーのために。あのダドリーの左側が、やっとやっと手に入れた大事な居場所だったから。
そのはずなのに。
『 あんたの勝ちだ。お姫さん 』
ギイさんがそう告げた時、頭が一瞬真っ白になった。
そして、彼が誰だかわからなくなった。周りにいる人たちのことも。
心配そうにのぞき込む、その顔がセレスタンだと思い出すのに、それから少し間があった。
それからザイ、そしてギイさん。駆け付けてくれた二人の首長。
ダドリーを思い出したのは、それから随分後だった。でも、理由は多分それだけじゃない。
いつからだろう。心の中で、ずっと呼んでる声がある。
誰かと大事な約束を交わし、それをずっと果たしていない、そんな思いがついて回って。なのに、どんなに考えても、
誰の声だか、わからない。
木漏れ日ゆれる裏道が途切れた。
道の突き当りを、右へ折れる。
南の風に振り向けば、商都へ続く街道の左に、赤、青、黄の天幕群。芸能者の居住区の、あの色とりどりの天幕は、今や観光名所ともなっている。
高い木立に囲まれた昼すぎの街道を横断し、人がまばらに行き交っていた。
出し物の準備をしているのだろう。薄絹の衣装の踊り子たちや、小道具を運搬する若手たち。そんな中、話しながら道をゆく、二人の後ろ姿で目を留めた。
長い茶髪を背中でくくった、ど派手なピンクの柄シャツと、フロックコートの中年紳士。あの二人組は──。
エレーンは思わず引きつり笑う。
「ローイと、お義兄さま……」
相変わらず仲がいい。
興行の一座を率いている族長代理のあのローイと、この北方の政務を握るダドリーの実兄チェスター侯。仕事上の相談もあろうが、ああも四六時中語らっているのは、それだけが理由でもないのだろう。
あのカラフルな天幕も、お義兄さまの寄贈と聞くし、中央の顔色をうかがってダドリーが反故にしようとした「居住許可」を分捕ってきたのもお義兄さまだと聞いている。
まったく変われば変わるもの。あんなに意地悪してたくせに、一体どうしちゃったのだお義兄さま……。
犬猿の仲だったあの二人が、今や、寂れた北方の「観光都市化改革」を牽引していた。
どうにも癖のある二人だが、人々の評判は悪くない。むしろ、結構な人気者。戦の時には二人とも、あんなにギスギス嫌われてたのに。
並んだ背中を改めて眺めて、ぺこりとエレーンは頭を下げた。
「色々お世話になりました」
二人に背を向け、歩き出す。
本当に色々あったけど、もう、これで、さよならだ。ここは、自分の居場所じゃなかった──。
「……笑え」
口角をあげ、笑みを作れ。
顎を引いて、前を見るのだ。いつでも、そうしてきたように。
自分の足で歩いて行こう。
未来へ続くこの道は、他の誰のものでもないのだから。
今はもう信じられる。もっと楽に、呼吸ができる場所がある。
さあ、人生を始めよう。
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