〜 予 感 〜
最後の客を送り出し、店の看板を取り込んでしまうと、遠野がカウンターに戻ってきた。
「悪いね、モップ掛けまでしてもらって」
「食わせてもらっているからな」
煙草をくわえて火を点けながら、「むしろ、ありがたいよ」と男は笑う。
「でも、怪我してただろ、あんた、腕。なのに、その、なんか悪いね」
言われて、腕を見せてやる。
「問題ない」
飴色に輝くカウンターの皿から、遅い夜食をつまんだ遠野が「え?」と目を丸くした。
「……なに、もう治ったの? まじか。あんなに深かったのに」
あの傷も今はもう、うっすら白く残るばかりだ。
まじまじ遠野がそれを見て、自分の腕を、やれやれと見せた。「俺なんか見てよ。まだこれだよ」
その手首から肘にかけ、ミミズ腫れになった裂傷の痕。
「たくましいんだな。見かけによらず」
「昔の傷が残っちゃって。まあ、ろくに手当てもできなかったし」
腕を引いて袖にしまい、遠野は顔をしかめて頭を掻く。「それにしても驚いたよ。だって、まさか思わないし。あんな所で、急に足をつかまれるとか」
ガラスの灰皿を男は引き寄せ、指先の灰を苦笑いで落とす。「生憎なくてな、つかまるものが」
「まあ、それはいいんだけどさ。困った時はお互い様だし。なんにせよ無事に戻れたし。けど、まさか、人がいるとは思わないって普通」
「やっぱり俺は、よほど行いが悪いんだな」
「え、やっぱりって?」
「少し前にも、危うく暗殺されかけた。まあ、察知はしていたが、読みが甘かったらしくてな」
「──なに。暗殺とか、よくあるの? さすがにすごいね。あっちの人は」
たじろぎ顔で言いながら、遠野が隣に腰をおろす。「それで、これから、どうするつもり?」
「なんとかなるだろ」
「ならないでしょ」
「俺は存外、運がいい」
「……。そうらしいね」
あんな崩落をやり過ごして、こっちに逃げ切れるくらいだし──続けて、はた、と口をつぐんだ。あわてた顔で振りかえる。
「あ、それはさすがに無理だからね俺。あんたを向こうに戻すとか」
男は含み笑いで一瞥をくれる。「俺の勘は当たるんだがな」
「だからさー、たしか言ったよね俺。あそこにいたのはたまたまで、俺だって別にこっちと向こうを自由に行き来できるってわけじゃ──」
ふと、眉根をよせて口を閉じた。
はあ、と溜息で脱力し、顔をしかめて頭を掻く。
「あのさ。そういうの、やめてくんない? からかうとかマジ勘弁。言っとくけど俺、そこらのガキとは違うから。たぶん、あんたより場数踏んでる」
「だろうな」
「──えー。本当に分かってるー?」
「"ろくに手当てもできなかった"んだろ?」
面白くなさげな舌打ちで、飲みかけのグラスを取りあげた。
「ま、店は助かるけどね。ずっと、あんたがいてくれた方が。だって、ウチみたいなおんぼろバーに、女のお客さんが来るとかさー」
前代未聞だよ、と店内をながめ、壁の時計で目を留めた。
やべ、とつぶやき、せかせかスツールを滑り降りる。
「ごめん。ちょっと店頼める? マスターの様子見てくるからさ。──たく。なんで、俺がおっさんの世話まで。さっさと嫁をもらえってんだよ」
愚痴って、壁から鍵をもぎ取り、店を突っ切り、戸口を出ていく。風邪で寝込んだ店主のために。
その背を、男は苦笑いで見送り、カウンターのグラスに目を戻した。
早仕舞いした深夜のバーで、ひとり煙草をくゆらせる。ぼんやり眺めた向かいの壁を、びっしり酒瓶が埋めている。
こぢんまりとした隠れ家のような、薄暗い照明の店にいた。
つややかに磨いたカウンター。壁にかかった丸い時計。文字らしきものが書かれた鏡──遠野言うところのパブ・ミラー。天井付近に設えられた、遠野言うところの洒落た"電灯" 炎を使わない手間のない灯り──。
ふと、頬を男はゆるめた。脛を引っ掻く爪の気配。
遠野が看板を取り込んだ際に、潜り込んでいたらしい。するりとドアの隙間を抜けて。むろん、店の残飯目当てで。
営業中に見つかると、すぐに遠野に摘まみ出される。だが、看板をしまった後でなら、見逃してもらえると心得ている。
とん、と猫が卓に飛び乗り、皿のハムをかじり始めた。
男はそれを咎めもせずに、くわえ煙草で懐を探り、折り畳んだ便箋を取り出す。
ずっと持ち歩いた紙片の折り目は、毛羽立ち、すでに擦り切れている。紙片をそっと慎重に開けば、余分な装飾を一切省いた、一言だけの簡素な文面。
一文字一文字、丁寧に書かれた丸い文字。
だが、幼稚な文字面とは裏腹に、悲愴な決意が綴られている。これまで受け取ったどんな手紙も、これには遠く及ばない。
「……死んでも文句は言いません、か」
くすり、とケネルは頬をゆるめた。
突きつけたのはあの彼女。世の苦難の上限が「友との喧嘩」くらいが精々の、子供のような顔つきで。それでも、あの時、すべて委ねると言ったから──。
苦笑いして首を振り、灰皿を取って手紙を置いた。捨て身の覚悟を突きつけられて、一体どこへ逃げられるというのか。
店のマッチをとりあげて、紙片の端に火を点ける。
「潮時、か」
めらめら燃えゆく便箋を眺める。帰る手立ては、どこにもない。
「だが、あいつのそばなら安全だ。領主の嫁なら、不自由もない。俺の業のとばっちりで、命を落とすこともない」
皿を舐めていた野良猫を、片手で懐に抱き寄せた。
「お前もそう思うだろ」
猫の額にうつぶせ、微笑う。
「……悪い。母さん。息子は嫁とりに失敗したよ」
堂々巡りの行き着く先は、想う相手の幸せだけだ。
だが、疼くような胸の痛みは、どこへ葬ったらいいのだろう。
誓いを立てたはずだった。あのカノ山の洞窟で。あの彼女を生涯守ると。苦い思いでボトルを取りあげ、卓のグラスに酒を注ぐ。
どこへでも付いてきて、あっけらかんとよく笑った。すぐに拗ねて、すぐに怒った。少しでも姿が見えないと、大あわてで捜し回った。
しがみついて、どうにも離れず、どこまでも後を追ってきた。その相手が急に消え、一人残され、どうしているのか。
それでも、やがて、顔をあげ、また歩いて行くだろう。
時おり道でへこたれて、しゃがみこんでは文句を言い、それでも他人を道連れにして。密かに唇を噛みながら。もう守ってはやれないが、せめて、彼方の彼女に贈る。
君の健勝を、切に祈る。
いかなる異国の地平にあっても。
グラスを取りあげ、飲み干した。
「さよなら。奥方さま」
ひょいと横から覗きこむ顔。不安そうに怯えた顔。けらけら笑う無防備な顔。口を尖らせたふくれ顔。いつの間にか忘れていた。
他人のものだということを。
煙草の先が、白く崩れた。
あっけなく灰になった、紙片が灰皿でくすぶっている。
とん、と猫が床に飛び降り、尻尾を立てて歩いていく。
「──こら。そこで爪を研ぐな」
またトーノにどやされるぞ、と床を引っ掻く猫を抱きあげ、ふと、今の床を見返す。
小さな泉が涌き出すように、光が床からあふれていた。
腰かけていたスツールを降り、近寄り、怪訝にしゃがみ込む。いくら何でも、さすがに照明ではなさそうだが──。
ふわり、と腕が発光した。
あの時負った傷痕だ。猫が引っ掻いた床のそれと、同調するような萌黄の光──。
ケネルは無言で眉根を寄せた。見覚えのある件の光が、今、目の前で湧いている理由を、うっすら察して唖然と固まる。
「……諦めの悪い奴だ」
頬をゆるめて、くすりと微笑った。
別れ際の彼女の声が、必死な顔がよみがえる。
『 待ってて、ケネル! 迎えに行くからっ! 』
ぜったい、ぜったい迎えに行くからっ!
「……。どこにいるのか、わかっているか?」
なにせ、ここは遥かな異界。彼女の暮らす地平ではない。それにしても──。
ぐいぐい持ちあがる光を眺めて、ケネルはつくづく腕を組む。
「よく見つけるよな〜、どこにいても」
そう、不思議と捜し出すのだ。一切迷うふうもなく。赤い糸でもたぐるように。
例えどこかに隠れても、すぐに気づいてやってくる。いや、事と次第によっては、顔面崩壊で突っ込んでくる。
じりっ、じりっ、と光が広がる。
ふんぬ、と顔を押しつけて、ぐりぐり力づくで押し広げようとしている。なんとなくだが、それがわかる。
「……。ほれ。がんばれ」
しゃがみ込んだその前で、ケネルも思わず彼女を応援。
微かな音を聞きつけて、凝視した目を瞬いた。今のは、こちらの空耳だろうか。
『 大好きよっ! 大好きだからねっ! 』
床からほとばしる光に紛れて、無理にねじ込んだような叫び声?
「……なんか、あったか?」
大好き攻撃がなぜかやまない。
「わかった。もう、わかったから」
しつこくしつこく念を押す、必死な形相を思い浮かべて、たじろいだ頬が知らずほころぶ。
──もう充分、伝わってるよ。
越境許すまじの時空の蓋と、顔をねじ込もうとするせめぎ合いは、今も熾烈に続いている。異界の果てだろうが何だろうが、彼女には関係ないらしい。
なんでこんなことができるのか理由は皆目不明だが、その確信にケネルもうなずく。
いつでも捨て身のアレならば、ものともせずに突き破る。絶対不可侵の境をも。
そして、こちらを見つけたら、突っ込んでくるに違いない。
町から戻ったあの時のように。
ゲルから裸足で飛び出して、緑にかがやく原野を駆け抜け、両手を広げて踏み切って。なんの躊躇も頓着もなく。
「……そうだな。いつか、片がついたら」
ケネルはそっと相好を崩す。
「"サムの店"で祝杯をあげよう」
ついにせり上がった萌黄の光に、笑って手を差し伸べた。
「さあ、来い」
そう、そして今度こそ、万難排して君を守ろう。
例え、行く手に待ち受けるものが、茨の道であろうとも。
彼女が裸足で駆けてくる。
大海原の彼方から、大地をさらい、街路を駆け抜け、天の高みに吹きあげて、
はるか時空までをも飛び越えて。
『 大好き、ケネル! 』
原野の陽を浴び、白い寝巻で飛びこんだ、彼女の声が耳元で弾けた。
<了>
CROSS ROAD 『ディール急襲 』
〜 姫とやさぐれ傭兵団 〜
( 連載期間 2005.8.8 - 2018.10.23 )
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