【ディール急襲】 第3部3章

interval 1 〜 化現 〜

 
 

 ぐん、と"白"が輝きを増した。
 つややかな髪が板床に流れ、豊かに波打ち、うち広がる。
 伏せた双眸がひらかれる。
 二重写しの相貌がブレ、凛と冷ややかな光をたたえた、色の瞳と入れ替わる。
 ふわりと柔らかなレースの寝巻が、清浄しょうじょうとした白装束に、にわかに取って代わられる。
 闇で "白"が輝いていた。
 白衣しらぎぬ緋袴ひばかま、巫女装束──。ファレスは愕然と凝視して、ごくりと唾を飲みくだす。
「……夢遊病、ってんじゃなかったわけか」
 あからさまな変化に見入っていた。いや、そんな甘いものじゃない。これは、
 憑依・・だ。
 まるで別人の相貌が、今、この目の前にある。つまり、これが

 ──月読の、化現けげん。  

 静まりかえった軒下から、夏虫のが聞こえていた。
 影が落ちた板床に、冴え冴え月が射している。強くつかんだ手の内を、女の手がすり抜ける。
「なんだ。つまらぬ」
 切りそろえた前髪の下、赤く小さな唇をひらいた。
「満足に相手もできぬとは。もっとも、お前の意気地のなさは、元より承知しておったが。いざという段に怖じ気づきおって」
「──あの妾の話かよ」
 ファレスは身構え、距離をとる。「てめえのお陰で、危うく手にかけるところだぜ」
「可愛げのない民草じゃ。せっかく趣向を凝らしてやったに」
 興醒めしたように片膝ひざを立て、肩にかかった黒髪を、白衣しらぎぬの手で打ち払う。
「憎んでいたのではなかったのか。あの身勝手な母親を。振りまわすだけ振りまわし、お前を打ち捨て、絶え入った──」
「なぜ "俺"だ!」
 ちら、と緋色の目を向けた。「付け込み易いからのぅ、心に傷のある者は」
「それで、俺の次の的は、アドルファスの親父にした、ってか」
「ふん。仕損じておって、熊男が。まったく、此奴こやつも余計な真似を」
「なぜ、そうも妾を狙う」
「お前が憤る必要はなかろう。あれも我の一部ゆえ」  
 ファレスは虚をつかれ、口をつぐんだ。あの妾が己の一部・・・・?──今、そう言ったのか?
 その言葉を真に受けるなら、つまり、それは、
 ── 多重人格、ということか?
「あの"影"も満足したか、ようやく還ってきおったが」  
「今度は何をさせる気だ。阿呆に色仕掛けなんぞさせやがって」
「とんだ茶番であったがの。此奴こやつの貧弱さでは無理もないが。見込みはあるやに思うたが、よもや、これほど役立たずとは」
「──そういう、ことか」
 はっとファレスは口をつぐんだ。
「あの時、呼んだ・・・のは、てめえか、月読」
 あの炎天下の街道を、さまよい歩くこの連れを、町に連れ戻させた・・・・・・のは。
 何の注意も向けていない他人の意識に働きかけ、望みの行動を起こさせる──誰にでもふるえる技ではない。
自惚うぬぼれるな、末裔風情が。誰もお前など呼んではおらぬわ。此奴こやつにうろつかれては障りがあっての」
「とにかく、二度とちょっかいを出すな」
 ファレスは舌打ち、月読を睨む。「俺は先を急ぐんだよ。こんな所でまごつけば、たちまちギイが嗅ぎつけて──」
「西へ進むこと、まかりならぬ」
「指図される筋合いはねえ」
「そうか。ならば、お前を出さぬ・・・

 リン── と一振り、鈴が鳴った。

 ぽつん、と落ちた一滴が、板床の闇を押しのける。
 その一点を中心に、透明な波が放射状に広がる。床の、壁の、月影の窓の、色彩いろが塗り替えられていく。
 ひっそり密やかな夜半の部屋が、隅々まで澄みわたる──。

 ひらり、と "白"が横切った。
 ひらり、ひらりと、一ひらの"白"が落ちてくる。これは──
「……雪、か?」
 ファレスは怪訝に見まわした。まだ夏のただ中というのに。いや、すでに室内でさえない。
 周囲の景色が一変していた。
 手の下には朱の欄干らんかん、拳ほどの高さに積もった雪。だが、不思議と冷たさは感じない。
 見渡すかぎりの雪原だった。
 ほの明るい薄灰の天空そらから、後から後から舞い散る雪片。木々も丘も埋め尽くし、ひっそり一面、白銀の世界。見渡すかぎり、人影はない。
 木造建築のぐるりを取り巻く、社殿の回廊に立っていた。
 雪の積もった朱の欄干が、はるか彼方まで続いている。丸い月が、空に出ている。薄灰の空に三つ・・の月。
 一切、音のない世界──。
 すっと横に、気配が並んだ。
 流れるような、つややかな黒髪。ファレスは舌打ち、眉をしかめる。「なんで、こんな所へ連れて来やがる」
「好みでな。美しかろう?」
 確かに美しい景色だった。だが、そうした上っ面を通り越し 「壮絶」の語が頭に浮かぶ。
「我と、ここで暮らさぬか。ここには飢えも老いもない。お前の嫌いな戦もない。時が止まって・・・・おるからの」
 いや、動くものは、ある。
 ちらちら、音もなく雪が降る・・──その心を読んだように、黒い瞳・・・で月読は続ける。
「これは、我の記憶ゆえ」
 しんしん、しんしん、降り積もる。いくえにも重なる記憶の層の、底の底の、さらに底──。
 白衣の薄い背に、紐で束ねた黒髪を倒した。
 天を仰ぐ桜色の唇・・・・。姿かたちが様変わった。──いや、これこその姿か。
 存外に無防備な横顔から、ファレスはとっさに目をそらす。
 取り込まれまいと閉ざした心が、かすかにきしみをあげ始める。思いがけず心が惑う。誰もいない白い世界。少女のようにか細い背。それでもその背をしゃんと張り──。
 ほの明るい薄灰の空。
 しんしん雪が降り積もる、静やかで清廉な、けれど、壮絶なまでにわびしい情景。時の流れから隔絶された、静かで清らかな、無音の世界──。
 すがるように月読が見あげ、白い指をさし伸ばす。
 チリ、と焼け付くような音がした。
 弾かれたように手を引いて、月読は忌々しげに柳眉をひそめる。
「──貴様、何を持ち込んだ」
 月読が触れようとした左手に、ファレスは怪訝に目を落とす。そこにあるのは、手首に巻いた鮮やかな
 ──ひも
 この紐は、確か──
「小賢しい真似を」
 月読が忌々しげにめつける。ふと、目をあげ、遠くを見やった。
 その視線の先を辿れば、広大無辺な雪原の彼方。だが、努めてその先に目を凝らせば、延々続く朱の欄干、そのはるか遠方に、米粒大の黒い人影。
 ──侵入者。
 一面白い雪原に、ぽつんと落ちた黒の一点、だが、絶大な違和感がそこにはあった。白を破るその黒は、この清浄な景色にそぐわない。
 こちらを認めて、"黒"が踏み出す。
 こちらを捉え、近づいてくる──
 柳眉をひそめた横顔が、緋袴の素足が後ずさる。
 
 ざわり、と不意に白が舞った。
 ひらりひらりと舞い散る白が、大きな渦に巻き込まれ、くるくる激しく舞いあがる。積もった雪まで風にさらわれ──いや、これは雪ではない。
 そう、雪ではない。花びらだ。
 くるくる花びらが舞っていた。
 薄桃色の、白い桜の。
 桜吹雪のただ中にいた。
 舞い散る雪の中ではなく。もしや、何かのまやかしか。いや、雪の方こそがまやかしだったか──
 あわててどこかへ逃げ去るように、月読が身を翻す。
 ひらり、と白い袖が振られ──いや、違う、この"白"は、
 
 ふわり、と揺れて、"白"が収まる。
 夜目にも白い、カーテンの裾が。
 リーリー夏虫が鳴いていた。
 窓の外には蒼い月。板床に影が射している。
 気だるく凪いだ夏の夜。壁の陰の寝台で、ぐっすり連れが眠っている。
 しん、と夜に静まった、暗い部屋に立っていた。
 
 
 

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