その６ の５だんっ！──と叩きつけたグラスから、琥珀の雫が飛び散った。
「あんた、責任とって付き合いなさいよねえっ！」
すでに目が据わっている。
ぬう、とリナが、酔漢の赤ら顔で振り向いた。
「ちょっとぉ、あんた分かってんの？ あたしはねえ！ あたしはねえええっ！ あんたの友達の副長のせいで──」
「ですから、あれはダチってよりも──」
「なあにごちゃごちゃ言ってんのっ！ なんか文句があるってのぉ〜？」
「はい。もう少し声を落としましょうねえ？ 皆さんのご迷惑になってますよ〜他に客はいねえけど。つか、俺まだ一応、勤務中なんで、そろそろお先に失礼しますよ。てことで、はい、これでごめんくだ──」
「どーでもいいから、あんたも飲めえっ！」
そそくさ逃げようとした腕を、ぐい、と引っぱり戻される。
「……強引スねえ」
激突間際で卓に手をつき、ザイはげんなり嘆息する。「悪いところに来ちまったな……」
ぎろり、とリナが睨めつけた。「ぁに？ なんか言った？」
「いえいえ、なんでもないっスよ」
ザイはやれやれと着席し、卓からグラスを取りあげる。
まったく今日はついてない。腐った気分を鎮めるべく一杯だけひっかけようかと酒場の扉を開いたら、なんて間の悪いこの遭遇。
酒場でばったり出くわしたのは、いかにも厄介な相手だった。よりにもよって双子の片割れ、あの小うるさい妹とは。
もっとも、こうした鉢合わせも無理はなかった。なにせ、ここは狭い町。酒場の数も限られている。そして、こんな昼日中の酒場では、客の姿とて他にない。つまり、逃げ場はどこにもないわけで……
ザイは軽く嘆息し、卓の酒瓶に手を伸ばす。「──ま、ここで会ったのも何かの縁」
くるりと振り向き、にんまり笑う。
「そういうことなら飲みますか。ささっ、まずは一献」
「──んー？ やーん、かまかぜってば。話がわかるぅ〜！」
リナはばんばん、ザイの背中を上機嫌で叩く。
「もおおおぉ〜！ 副長の奴ぅ〜！ なあんであんな憎ったらしいのよお！ ねーねー聞いてるぅ〜？ かまかぜかまかぜかまかぜぇ〜っ！」
「こんな所で二つ名連呼しないでもらえると助かるんスけどねえ」
「……あー？ なに？ なんか言ったあ？ かまかぜっ？」
「いえいえ、なんでもないっスよどうせ覚えてねえでしょうし」
「ひいぃぃっく！ 副長の──副長の──副長のぉ〜──」
ばかああぁっ！
とくとく酒を酌み交わし、そうしてかれこれ十分後……
「……もう起きないで下さいねえ？」
窓辺の卓に突っ伏して、テキはくーかー寝入っている。
泣き寝入りしたつむじを眺めて、ザイはグラスに目を戻す。ファレスに告白って玉砕したため、昼日中の酒場の片隅、くだを巻いていたらしい。とはいえ無論、面倒この上ないこんな相手と一対一で飲みたい気分ではない。となれば、逃れる手段はただ一つ。
とっととコイツを酔い潰す。
「──厄日かね」
陥落したテキの真向かい、溜息まじりの楊枝の先で、ツマミのチーズをやれやれといじる。「たく。こんなとこ、誰かに見られでもしたら……」
ザイはひとり溜息をつく。酒で憂さを紛らわせるつもりが、思わぬ連れの出現で、気分は更にどん底だ。
閑散とした酒場の窓辺で、頬杖をついて外を見る。
街路に落ちる、影が色濃い。
町が夏日を浴びていた。白々とした昼さがり、町はまだ暑い盛りで、そぞろ歩く人影は少ない──。
遠くの歩道で、目を止めた。
椅子から上着を引ったくり、自分が飲み食いした分の、札を二枚、卓に置く。
がらんと薄暗い昼の酒場を、店の出口へともどかしく突っ切る。
肩をぶつけるようにして、木造りの扉を押しあけた。
強い日ざしの石畳に飛び出し、先の現場へ駆けつける。真昼の通りに、人影はない。角を曲がってしまったか──。
ざわめきに耳を澄まして、ひとまず通りを左へ走った。
次の曲がり角で、左右を確認、二つ先の曲がり角まで、素早く視線を走らせる。一団の姿は、どこにもない。
苛々と舌打ちし、ザイは道を取って返す。
「──どこへ行った」
常ならぬポカが悔やまれた。あわてて飛び出してしまったせいで、行く先の確認を怠った。どこかの建物に連れこまれれば、たちまち足どりが追えなくなる──。
窓から見かけた光景が、熱くのぼせた脳裏をよぎった。与太者風の数人が、小柄な女性に絡んでいた。下卑た笑いの人垣の向こうで、娘が顔をしかめてもがいていた。見間違えるはずもない、あのラナが。
歩道に視線を走らせながら、先の現場を素通りし、左右の曲がり角を確認する。
走り続けた足を止め、通りの先に目を凝らした。前方右手に人だかり。あの野卑な喧騒は、あの一団に違いない。
ザイは舌打ちで地を蹴った。この界隈は繁華街ゆえ、ちらほら人の姿はある。だが、与太者の身形に恐れをなしてか、誰も彼もが見て見ぬ振りだ。
上首尾の奇声をあげながら、一団が笑って遠ざかる。ザイはその足を止めるべく口をひらく。
寸でのところで、口を閉じた。
怪訝に、それに目を凝らす。
ぶらぶら練り歩く一団に、人影が右の角から割りこんだのだ。ひょろりと背の高い、若い男。革の上着に編み上げの革靴。そして何より、特徴のあるあの禿頭──。
「あいつ……？」
ザイは唇を舐めて、すがめ見る。
「何してんだ、あの野郎」
厩の手前で別れたはずのセレスタンだった。横槍を入れられた与太者たちは、胡乱にそちらに向き直り、顔をしかめて凄んでいる。
セレスタンはへらへらそれを往なして、だが、彼女の身柄は素早く確保し、人垣の外へとそつなく連れ出す。
せっかくの獲物を取りあげられて、一団は口汚く罵っている。
だが、ひとしきり吠えかかると、左の脇道へ肩を返した。白けきった顔つきで、ぞろぞろ二人から離れてゆく。
ザイは怪訝にすがめ見た。
「……どうも、諦めがよすぎるな」
捕らえた獲物をかっさらわれても、奪い返そうとするでもない。
見知らぬ飛び入りは多勢に無勢で、恫喝するでも刃物をちらつかせて脅すでもない。ましてその正体が、荒い戦場で向こうを張る腕利きの傭兵であることなど、むろん知る由もないだろう。
それが、なぜか、あっさり獲物を解放した。相手が一人歩きの女と見るや、たちまち絡んで取り囲み、どこぞへ連れこもうとするような卑劣漢が。
ふと、顔をあげ、ザイはゆっくりと顎をなでた。
「──ああ。そういうことか」
禿頭は笑顔で彼女を促し、事もなげに歩き出す。
ザイは二人に背を向けた。
与太者の一団は、次の街角にさしかかっている。そちらにつかつか歩み寄り、最後尾の襟首を引っつかむ。
「ちょっと待った」
胡乱に振り向いた顔を睨めつけ、壁に腕づくで押しつけた。
「お前に訊きたいことがある」
セレスタンが彼女を奪い返した先の場所まで立ち戻り、あの禿頭をザイは探した。
ここは元より小さな町だ。まださほど人出もないから、大して苦もなく見つかるはず──。
日陰になった路地を駆け、十字路を三つやり過ごす。
足を止め、曲がり角の先に目を凝らした。
人影があった。
人通りの少ない路地裏に、寄り添い歩く二人の背。その内の一人は背の高い禿頭、そして、あとの一人は、言わずと知れた──
「──あの野郎！」
ザイは舌打ちで踏み出した。
禿頭が笑いかけて背をかがめ、彼女に何事か耳打ちしていた。
足を止め、二人は互いに向き直る。壁際で見あげた小柄な彼女、そして、禿頭の長身が、その顔を見おろしている。
知らず知らず、足が速まる。
ズボンの隠しに突っ込んだ手を、禿頭がおもむろに抜き出した。
その手が、彼女を抱き寄せる。彼女が驚いて身をよじった。戸惑ったように仰いだ顔に、長身が軽くかがみこむ。
顎に手をかけ、彼女に顔をかたむけた。
