■ CROSS ROAD ディール急襲 第1部 1章5
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「心はお決まりになりましたかな」
再訪したディールの使者は、いそいそ上機嫌で覗きこんだ。
「もはや一刻の猶予もございませんのでな。本日は、しかとお返事いただきたく」
相手が承諾することを、露ほども疑わない顔だ。
「さあ、どうなさいました。色良いご返答を頂けるのでしょう」
エレーンは顔をしかめて唇を噛み、自分の膝に目を落とした。指の震えが止まらない。ドレスの膝を握りしめているのは、なんの変哲もない見慣れた手。
まったく悪い冗談だ。こんな小さな自分のこの手に、領家の命運がかかっているというのだ。幾千幾万もの領民たちの運命を、それぞれが築く未来のすべてを、自分のこの手が握っている。ほんのついこの前まで、領邸の使用人をしていたこの手が。
──逃げたい。
壮絶な恐怖が込みあげた。
こんな場所はすぐにも逃げ出し、自分を誰も知らない所で、無関係な顔を決めこみたい。自分は他人様の運命を、まして他人の生命を顎の先で左右できるような、そんなたいそれた器ではない。領邸で寝起きはしていても、中身はただの一庶民だ。人の上に立つべく教育された生粋の貴族のダドリーたちとは、端から全く違うのだ。英気が。器量が。才腕が。
それに、要請を蹴ったりしたら、切り捨てられたダドリーはどうなる?
暗い牢獄に繋がれて、背中を鞭で打たれるかもしれない。二度と外には出られないかもしれない。悪くすれば死ぬかもしれない。遠いトラビアの獄中で、誰にも看取られることもなく──。
はっ、とエレーンは息を呑んだ。
そう、こんな午後だった、あの時も。
西日を浴びた書斎の机。ラトキエへの援軍を促し、彼に詰め寄ったあの午後の──
「さあ、奥方様。ご返答を」
「……お引き取りを」
ぴくりと使者が、訝しげに動きを止めた。
「いや、申し訳ない。よく聞こえなかったのですがね」
膝の両手を強く強く握りしめ、エレーンは顔を振りあげた。
「領主不在のこの折に、私の一存で兵を動かすことはできません。お引き取りを」
今度は一語一語はっきりと、クレスト領家としての意向を伝える。
使者は珍しいものでも見るように、まじまじと眺めやっている。戸惑い顔で眉をひそめた。
「ほう。宜しいのですかな、本当に? 結論をお出しになる前に、よくよくご再考願いたい。既に申し上げているはずです。切り札は我が手中にあると。よもや、お忘れではないでしょうな」
エレーンは無言で睨めつけた。断じて、ここで屈してはならない。
「──強情な方だ」
使者は忌々しげに舌打ちし、乗り出した背を椅子に戻した。
「そうですか。それはまことに残念だ。ご当主様はこちらには、二度とお戻りにならぬやも知れませんな。まったく民も災難だ。主に見捨てられようとは!」
人さし指で、苛立たしげに卓を叩く。
「本当に宜しいのですな。貴女の下す判断一つで、街が火の海になるやもしれませんぞ。それでも良い、と仰るのですな」
「──で、ですから、それは!」
さすがにエレーンは口ごもった。それを持ち出されては、うなずけるはずがない。
「そうですか! ならば──」
使者が痺れを切らして席を立った。
落ち窪んだ眼窩で、憎々しげに見下す。冷徹な色がその眼に過ぎった。
「ならば、首を洗って待っているがいい」
靴の踵を鋭く鳴らして、憤然と外套をひるがえす。
「──ちょっと待ちなさいよ」
立ち去りかけた足を止め、使者が肩越しに振り向いた。
エレーンはゆっくり席を立つ。使者の顔を睨み据えた。
「あたしの夫に妙な真似をしてみなさい。あんた、ただじゃ済まさないわよ」
使者が鼻じらんだように顔を強張らせた。
取り繕うように鼻を鳴らして、そそくさ扉に踵を返す。重厚な扉が叩き付けられ、凄まじい音が客間に響いた。
交渉の、決裂した瞬間──。
窓で、梢がゆれていた。
がらんと白けた空間に、静寂が重く淀んでいた。鳥が鳴き、遠い声が、風で届く。指先が、まだ震えている。
立ちあがった椅子の座面に、エレーンはへなへなとへたりこんだ。
追いつめられたあの時に、あの日の書斎が脳裏をよぎった。西日を浴びた書斎の机。ラトキエへの援軍を促し、彼に詰め寄ったあの午後の。あくまで懇願を突っぱねた、あのダドリーのかたくなな顔を。
ふと、それを考えた。
交渉の席についたのが、あのダドリー=クレストだったなら。
彼の代理を務める者の、交渉の席に就く者の、唯一にして重大なる役目は、彼の意向を過たず、正しく先方に伝えることだ。それが彼を窮地に追いやることになろうとも。
エレーンはきつく瞼を閉じる。癖っ毛の彼の、屈託のない笑みがよみがえる。
胸に走った鋭い痛みを、浅く息をついてやり過ごし、室内に視線をめぐらせた。
少し翳った午後の日ざしが、一面の大窓から射していた。がらんと静かな広間の片隅、上半分が陰になった「それ」が白壁に掲げられている。
金の房で縁取られた旗が、ひっそりと西日を浴びていた。その旗章は「天に昇る竜」ここクレスト領家が掲げる家紋だ。
ゆっくりと席を立ち、エレーンは旗に歩み寄る。
あの使者が言うように、自分は確かに何も知らない。こうした場の身の振り方や、まして貴族のしきたりや駆け引きも知らない、無力な庶民の素人だ。だが、だから諾々として受け入れていいのか。
あの旗を引き降ろされ、他領に領土を蹂躙され、従順な敗者に甘んじていいのか。ダドリーが治領に帰ったその時、ディールの旗章がひるがえっていていいのか。
いいえ。断じて、あってはならない。
重厚な旗を凝視して、エレーンは奥歯を噛みしめる。それでは彼に「帰る場所」がなくなってしまう。あのダドリー=クレストに。
くっきり輪郭を伴った、明確な自覚が湧き起こった。
「……あたししか、いないんだ」
今、行動の選択権を持っているのは。
そう、他の誰でもない。
ダドリーでも、警邏長官でも、まして無責任な義兄でもない。この土地の命運を担っているのは、ひとり自分だけなのだ。どちらの分岐に進むのか、この土地の未来をどうするのか、大勢の領民をどうするのか──そう、大事なのは領民だ。何の選択権も持たない彼らを、むざむざ他領に隷属させていいのか。
今なら、わかる。
何を置いても領民を守ろうとしたダドリーの気持ちが。たとえ捨てがたいものを捨て去っても、たとえそれが懐かしい商都であろうとも、この大勢の領民たちを、敵の眼前に差し出すことはできない。
選択は、常に一つ。
同時に二つは選べない。だから彼は採ったのだ。自分の領土と領民を。大勢の暮らしと、何よりその生命を守るために。
泣き言なんか言わなかったけれど、商都が大事でなかったはずがない。考えなかったわけがないのだ。見捨てた商都の行く末を。それでも彼は、一人で決めた。どれほど文句を言わても、逃げ出したりはしなかった。一人でその場に踏み止まった。荒れ狂う嵐のただ中に。
たとえ「人でなし」と罵られても。
今、自分がすべきこと。
彼の留守を預かる者が、今、成すべき、ただ一つのこと。
他でもない。この土地を死守することだ。正統な主が戻るまで、断じて敵に明け渡してはならない。
彼が育ったこの家を。
壁で控えた老執事が、引きつり顔で駆けてくる。がらんと静かな午後の広間に、西日がうららかに射している。
中央に描かれた「昇竜」が、雄々しく雄叫びをあげている。日ざしに温まった重厚な旗を、エレーンはそっと指先でなでた。
まだ、何もわからない。戦がどんなものなのか、平和な街で育った者に、その正体など知る由もない。今はただ、使者を追い返した高揚感と、とんでもないことをしでかした、という絶望的な自覚だけが、不気味に胸中でせめぎ合う。
朦朧とした意識の隅を、何かがカリカリと引っかいている。一つの考えが、胸にあった。いや、他に妙案など一つもない。
ぼんやり霞む、遠い兆し。たぐれば、ふっつり消え入りそうな、ほのかで淡い、かすかな泡沫。もろくも小さな、ささくれのような、とっかかり。だが、これを逃せば、後はない。
足元が抜け落ちるような焦燥を噛みしめ、エレーンはひとり立ちすくんだ。
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