CROSS ROAD ディール急襲 第3部 1章1話3
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 翌日も牢番のじいさんは、薄暗い通路をやってきた。
 曲がった腰を直角にかがめ、食事の膳を両手で持って。だが、今日はいつもと様子が違う。
 どことなく落ち着きがなかった。何がそんなに気になるのか、そわそわ周囲を見まわしている。
 はばかるように通路の先をうかがって、振り向き、ちょいちょい手招きした。
 気だるく座りこんでいたダドリーは、膝で顔を横に向けた。
「……なに? 俺になんか用?」
 白髪頭の牢番は、長らく使っていなかったのだろう皺だらけの頬をゆるめて、ぎこちなく笑いかけている。細めたまなこが、こちらに来るよう呼んでいた。かわいい孫を招き寄せるような仕草で。
「ああ、ちょっと待って。今、そっち行くわ……」
 もう立ちあがるのも大儀だったが、牢番からの働きかけは初めてだ。膝に手をおき、ダドリーは気だるく腰をあげる。「──よっこらせっ、と」
 くらり、と視界がゆらめいた。
 足がふらつき、膝をつく。床に手を突き、顔をしかめて頭を振った。あまりに空腹で目がまわる。
 薄暗くぼやけた視界の端で、牢番は通路で待っている。食事の膳から片手を離し、小刻みに震える皺だらけの手を、上着の懐に差し入れて──
 白髪頭が掻き消えた。
 食事の膳が床で弾かれ、けたたましく耳障りな音を立てる。
「何をもたもたやっている!」
 響きわたったのは男の怒号。
 ダドリーは朦朧とした頭を怪訝にあげる。とっさに何が起きたか把握できない。
 立ちあがろうと目線をさげた、ほんの一瞬の出来事だった。今の今まで目の前にいた牢番が、鉄格子の向こうで転がっている──?
「これは失礼を。ご領主さま?」
 額を切った牢番から、あぜんとして目を向けると、青い制服のズボンがあった。
 軍服の胸に手をおいて、わざとらしく頭を下げている。上目使いで顔をあげた、口をゆがめた揶揄の顔。口元に蓄えた細いヒゲ。
「──あんた」
 そこにいたのはバウマンだった。国境を仕切る警備隊長。ならば、この男が後ろから、いきなり牢番を突き飛ばしたのか──?
 はっ、と視線を走らせた。
 食事の膳が案の定、通路の端まで飛ばされている。愕然と、ダドリーは息を呑む。「……飯が」
 めざとくバウマンが見咎めた。
 つかつか膳に足を向け、靴裏でパンを踏みにじる。
「こんな粗食は、お口にお合いにならんでしょう」
 ダドリーは目を怒らせた。目をすがめてバウマンは笑い、嘲るように鼻を鳴らす。「おや。どうかなさいましたかな?」
「──お前の薄汚ねえ足元に、ひざまずけってえのかよ!」
 視界の端で、牢番が動いた。
 おどおど鉄格子に近寄って、懐から何かを取り出そうとしている。
 急いで、それを差し出した。面食らって、ダドリーは見返す。
「……いいのかよ。それ、あんたの昼飯じゃないの?」
 手の平にのっていたのは、竹の葉でくるんだ包み。
 とっさに受け取りをためらうと、牢番は必死でせっついた。早くとれ、という顔で。
「余計な真似をするな!」
 牢番が横様に吹っ飛んだ。
 バウマンはつかつか足を向け、牢番の腹を蹴りあげる。その胸倉を引っ立てて、拳で顔を殴りつけた。相手は小柄な老人というのに、わずかな手加減も容赦もない。
 憎々しげに巡らせたその目が、ぶちまけられた握り飯を捉えた。ふん、とバウマンは鼻を鳴らし、靴裏でそれを踏みにじる。
「──てめえ!」
 ダドリーは目をみはる。
「私めが処分しておきました」
 うやうやしく下げた顔をあげ、バウマンは口端をゆがめて、にたりと笑う。「このような下々の粗食など、召し上がるものではありませんぞ」
 牢番を冷ややかに振り向いた。
「貴様、浮浪者の分際で! この薄汚いもうろくジジイが!」
 憎々しげに罵倒して、牢番の顔を踏みにじる。顔をしかめた牢番の腹を、硬い軍靴で蹴りつける。
 牢獄の壁に黙ってもたれ、ダドリーは眉をひそめて、それを見た。
 その目をそらして、通風孔に目を向ける。
 のどかな光が射しこんでいた。通風孔の外側では、短い草がかすかにそよぎ、昼の夏日を浴びている。しわがれた悲鳴が響いていた。激しく咳き込むうめき声。逃げまどう悲痛な泣き声。口がきけない老人の、言葉にならない許しを乞う声──。
「──たく。いつまで、やってんだ」
 顔をしかめて舌打ちし、ダドリーはうんざりと嘆息した。
「そのじいさんをいたぶれば、俺が動揺するとでも思ってんの? あいにく俺には関係ないぜ?」
 振りあげかけた足を止め、バウマンが肩越しに目を向けた。
 窺うように目をすがめ、うさんくさげにじろじろと見やる。
 にたり、と口の端をゆがめ、目を細めてバウマンは笑った。
「ならば、その手は、、、、なんでしょうな?」
 一瞬つまり、ダドリーは苦々しく吐き捨てた。「──なに言ってんだ。なんの話だ」
 大きく嘆息、腕を組む。
「やるんだったら、外でやれよ。迷惑なんだよ、そこで、うるさく泣かれても」
「ま、そう言われましてもね」
 バウマンは舌なめずりしてクツクツ笑い、うずくまった牢番を振りかえる。
 折檻は激しさを増した。
 無抵抗のその腹を、軍靴が再び蹴りあげる。くり返し、くり返し。何度も何度も。
 もたれた壁から、ダドリーは一歩も動かなかった。口を挟まず、窓を見ていた。光が射しこむ通風孔を。
 倒れ伏した牢番が、蹴っても殴っても動かなくなると、ふん、とバウマンは鼻を鳴らした。
「たく。手が痛くなっちまったじゃねえかよ」
 ああ、棍棒を使えばよかったな、と不愉快そうに踵を返し、通路の先へと戻っていく。
 床を叩く足音が消え入ったのを確認し、ダドリーは鉄格子に取りついた。
(じいさん!──じいさん! 大丈夫か、おい!)
 うつ伏せで倒れたまま、牢番はぴくりとも動かない。瞼と唇が腫れあがり、顔が紫色に鬱血している。口も額も血まみれだ。もどかしい思いで舌打ちし、ダドリーは焦れて手を出した。
 いっぱいに腕を突き伸ばす。
 顔がひしゃげるのも構わずに鉄格子に押しつけて、指を泳がせ、必死で探った。呼んでも、牢番には聞こえない。触れねば、牢番には分からない。手応えは、ない。
 自分の息づかいばかりが虚しく聞こえた。突き伸ばした指先が、横たわった肩まで届かない──。
 はっ、とダドリーは硬直した。
 音が、聞こえる。
 コツコツ床をたたく音。おそらくは軍靴、それも複数。誰かがここに
 ──やってくる。
 すばやく手を引っこめた。
 鉄格子に背を向けて、ダドリーは戸板に滑りこむ。
 そむけた背中で気配を探ると、やってきたのは兵士たちのようだった。横臥の肩越しに盗み見れば、鉄格子の向こうの薄暗い通路で、下っ端らしい兵士が二人、牢番を背中から抱き起こしている。ぐったりうなだれた牢番の脇に、兵士が左右から手を入れて、力ない血まみれの体を、ずるずる無造作に引きずって行く。
 そっとダドリーは肘をつき、音を立てずに腰をあげた。
 通路に歩き、鉄格子を握って様子をうかがう。話し声が低く聞こえた。今の兵士たちだろう。話の内容はわからない。
 辛抱強くすました耳に、物音は徐々に遠のいていく。何かを開け閉てするような、重い物音が遠く聞こえる。
 やがて、ふっつり消え入った。上の階にあがったか、扉を閉めたかしたのだろう。
 ダドリーは詰めていた息を吐き出した。声はぼそぼそしていたが、あの牢番がどうなったのか、とうとう分からずじまいだ。
 顔をしかめて首をふり、深く、長く嘆息する。ふと、鉄格子のぬめりに気づいて、手の平を見、眉をひそめた。壁に戻って、肩でもたれ、
「──畜生!」
 力任せに壁を叩いた。
 ずりずり背中で壁をすり、くず折れるようにうずくまる。
「……まだまだ、だな」
 ぬめる拳を握りしめ、立てた膝にうつ伏せた。
 かたく目を閉じた耳元に、昼の物音がのどかに届いた。
 鳥のさえずり。蝉の声。窓の向こうの、夏の気配。今の兵士たちだろうか、話し声が小さく聞こえる。草の上を歩く音。自由に外を歩く音。隔絶された自由な世界──。
 ぐー、と腹が情けなく鳴った。
「……ままならねえな」
 片手でさすって、ダドリーはなだめる。こんな時でも、腹は鳴る。
 もう、ずいぶん長いこと、まともに食事をしていない。向かいの壁を、穴があくほど睨めつけた。「──覚えておけよ。なまずヒゲ」
 それにしても、解せなかった。傲岸不遜なあの態度が。
 人質とはいえ他領の主に、バウマンは何故、ああも小馬鹿にした態度をとれるのか。たかだか国境守備隊の頭風情が。
 人質をとる目的は、身代金を取るためだ。つまり、金さえ払えば解放される。だが、あの隊長は、その後予想される仕返しなど、露ほども心配していない。
 ラトキエの敗北を確信し、それを見越しての振る舞いなのか。ディールがラトキエを下すこと即ち、クレストをも手中にすることを意味する。大ラトキエが消えてしまえば、弱小クレストになすすべはない。そうなれば、人質などに価値はない。財貨は実力で奪えばいいのだ。
 だが、あのしたたかなラトキエが、むざむざ負けるはずがない。必ず手は打ってくる。あの隊長も軍の末席に連なる身なら、それが分からぬはずはない。ならば、別に理由があるのか?
 どこかに強い後ろ盾コネでもあるのか。大掛かりな悪事をなすには、つるむ相手が必要だ。口裏を合わせて敵対相手を陥れるためには、何者かの存在が必須のはずだ。この場合、顔ぶれは限られる。小馬鹿にしている「領主」と同格、もしくはそれ以上の有力者。候補の筆頭は国王だ。そして、ラトキエ、ディールの各領主。格が違いすぎる国王は、まず除外していいだろう。こんな辺境の隊長風情が徒党を組めるような相手ではない。相手は強大、王と言葉を交わすことはおろか、拝謁さえ叶わないだろう。
 そして、現在の紛争相手・ラトキエ領主の線はない。現領主の病状は重篤、その跡をとる嫡男アルベールは公正、清廉な性格で、あんな卑劣漢と徒党を組むとは間違っても考えられない。そもそも、あんな小物と組んだところで、ラトキエには何の利得もない。だが、そうなると──
 愕然と眉をひそめて、ダドリーは床の一点を凝視する。
「……まさか、ニックが?」
 あのバウマンとグルなのか? だから会いにも来ないのか? そう、今まで意識的に、ずっと目をそらしていた。その厳然たる事実から。
 ──国軍が動いている、、、、、
 カレリアの国軍が、現に商都を包囲している。内部の細かな指揮系統は別にして、軍に号令できるのは、他の誰でもない、権限のある領主だけ、、、、だ。
 今まで、ずっと、見ないふりで排除してきた。常にちらつくその可能性を。人は誰しも変わるもの。そう、
 ──年月がたてば、人は変わる。
 ここ数年会わぬ間に、領主が変わっていたとしたら? 外からは窺い知れぬ、思いもよらぬ何らかの理由で。
「──冗談じゃねえぞ、おい」
 拳を石床に叩きつけ、ダドリーはぎりぎり奥歯を噛んだ。
「どいつもこいつも、何故それがわからない! 内輪で揉めてる場合じゃねえだろ!」
 隣国は折悪しく、、、、停戦中。裏を返せば、体を持て余した軍隊は、すぐにも戦闘に入れる、、、、、、、ということだ。つまり、今、カレリア国は、その矛先がゆめ向かぬよう注意の上にも注意を払い、息を潜めていなければならない。幸い、この地には地の利があるが。
 国境の山岳地帯には、猛獣バクーの大群が出るため、何人たりとも立ち入れない。海も河川も流れは激しく、船舶での出入りも不可能だ。つまり、カレリア・シャンバール二国間における出入り口はただ一つ、国境の河川にかかる橋梁のみ。
 この吊り橋をあげてしまえば、いかな戦好きな隣国といえども、こちらに攻め込む手立てはない。ディールが起こしたこの騒ぎで、国境は現在、封鎖中のはずだ。もっとも、橋があがった光景など、生まれてこの方見たこともないが──。
 ぴくり、と頬が強ばった。
「……見たことが、、、、、ない、、
 ダドリーは視線をさ迷わせる。あの光景が脳裏を掠めた。ディールに投降した際の、あの夕刻の光景が。
 古風な出で立ちの楼門に、引っ立てられるように連行された時、入口の吊り橋は苔むして、赤茶の大地と同化していた。分厚い外壁も円塔も、今や景観の一部になり果て、それ以上の役割を果たしていない。
 楼門の暗い天井に、あげられたままの落とし格子が重々しく貼りついていた。もう誰も気にも止めない、野草おい茂る外周の堀。まだ誰も生まれていない、はるか昔の戦のなごり──。
 乾いた唇が、わなないた。
「……武器はあるのか? 食いもんは」
 攪拌されたように胸が騒いだ。天下泰平の世が続き、外敵に備えるべき守備兵が、油断し、慢心しているとしたら。
 前回、国境の橋をあげたのは、一体どれくらい昔の話だ? 有事の際になすべきことを、国境警備隊は心得ているか? 国軍との連携は、常に円滑に繰り出せるか? 平和な時代に育った彼らは、本当にそれを心得ているか? あの橋は、今、本当に、
 ──橋は、、本当に、、、あがっているか、、、、、、、
 はっ、と身を硬くした。耳に届いた、かすかな物音。
 怪訝に思い、耳をすました。
 足音だ。やはり、誰かがやってくる。先の兵士が引き返してきたのか? だが、それにしては、音が軽い。何か、いやに落ち着きがない。ばたばた、ばたばた──兵士では
 ──ない?
 不意に、人影が駆け込んだ。
 鉄格子の向こうに、あの顔を認める。
「お前、どうして……」
 物珍しげに牢を覗いて「ね、鳥がいるんだよ? マリーベル」と、笑って女児の手を引っ張っている。
 あぜんとダドリーは呟いた。
「……コリン。お前、どうやって中に」
 通風孔から覗きこみ、お喋りしていたあの男児だった。興味津々の二人の子供を、交互に見やって、ふと気づく。
「なんか、この子、確かどこかで──」
 コリンが連れてきた女児の顔に見覚えがあった。あどけない顔立ち、肩で切りそろえたおかっぱ頭の──
「あああっ! お前っ! あの時の!」
 口パクで目をみはり、ダドリーは女児に指をさす。そう、忘れもしない、あの少女だ。あの日、攻め入った街門で、国境警備隊に人質にとられた──。
 はたと気づいて、あわててコリンの腕を引いた。
(お、おいっ! お前ら! ここから早く外に出ろ! ここにいるのがバレてみろ。一体どんな目にあわされるか!)
 声をひそめて早口で促す。血まみれの牢番が脳裏をよぎる。
 二人の子供は、きょとんと通路に立っている。顔を見合わせ、コリンが訊いた。
「なんでー?」
 じれったい思いで、まくし立てた。
「いいからっ! 早く出るんだよ! そうしないと、いつ、また、あいつが──」
 カツン、と通路で靴音がした。
 はっと鋭く息を飲み、ダドリーは頬を強ばらせる。
 コツコツ硬い音を立て、こちらに足音が向かっていた。
 あわてて二人の子供を引き寄せ、焦燥に駆られて周囲を見まわす。もしも、また、あの男が、バウマンがここに戻ってきたら──
 平気で子供を盾にする男だ。この少女を見つければ、何を始めるか分からない。現にあの日も、泣きじゃくる少女の首筋に、笑って刃を押し当てていた。楽しそうなあの目には、ぞっとするような狂気が見えた。
 少しでも投降をためらえば、きっと刃を引いていた。降参するまで何度でも。いく筋も切りつけられて、子供が血まみれになろうとも。耳をそぎ、指を落とし、子供の泣き声がついに途絶えて、息絶えるまで。
 あれは常軌を逸した偏執狂の目だ。
 カッ──と固い靴音が響いて、通路に人影が現れた。
「よう、ご領主さま。元気かい?」
 鉄格子の向こうから、気安く声をかけ、笑いかける。
「──あんた、は」
 二人の子供を引っかかえ、ダドリーは面食らって見返した。
 思わぬ相手が、そこにいた。
 青と白との国軍の制服。四十絡みの銀縁めがね。そして、黒のオールバック。
 国境警備隊の副官だった。
 人質をとった土壇場で、攻守を一気にひっくり返した、国境警備隊の立役者。
 つまり、あのバウマンの手下だ。
 
 
 

( 前頁 / TOP / 次頁 ) web拍手

 
 
 
☆ おまけSS ☆
『 おっかけ道中ひざくりげ 』

 


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》