■ CROSS ROAD ディール急襲 第3部3章47
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世界が Err を吐いている。
キーン──と密かに絶え間なく、何かの倍音が鳴っている。
無音にも似た高音が、途切れることなく、同じピッチで。
午後の店の、ほの暗い床で。
青草ゆれる草原で。
人の行きかう雑踏で。
ざわめきを縫い、沈黙を縫い、光のように真っすぐに。
和音に入らず、ノイズでもなく、調和せず、狂いもせず、周囲と混じり合うこともなく、それはただただ、ひたすら正しく。ざわめきに沈み込むでもなく。
「──来たな」
アレが。
徐々に手足に絡みつき始めた、密やかな気配を遠野は察し、膝でながめた参考書を閉じた。
ノースカレリア。旧港湾都市の倉庫街。寂れた酒場 《 無限の終わり 》
カウンターの中に積み上げた、酒瓶の木箱から立ちあがり、腰に手を当て、凝りを伸ばす。
店を突っ切り、外へ出て、「閉店」の札を扉にかける。
ぶらぶら店内に取って返して、ささやかな手荷物を取りまとめる。
使い古したスポーツバッグに、数学の参考書を放り込み、途中で落とさないようにと背負い上げる。
「準備オーケー」
問題集を解きながら、この異状に陥った理由を、あり余る時間で考え続け、ある時、不意に閃いた。
おそらく、一人多かったのだ。
厳密なセカイの成員が。
だから、本来いるはずのない、いわばマイナスの負荷を持つ「異界の者」を補って、不均衡を打ち消した。そして、用済みになったということは、すなわち、ようやく
帳尻が合った。
世界が Err を吐いている。
途切れもリズムも揺らぎももたない、どこに属する音でもない。けれど同時に、すべての場所に通底する──。
それは、何物も許さず、全てを侵す。
特定の何かを意味することなく、ただただ超然と、そこに在る。
ぐるり、と店内を見回した。
もう、とうに見慣れてしまった、開店前のほの暗い店内。
「やれやれ。やっと戻れるか。ま、お蔭さまで、試験対策はバッチリだけどさ」
世界が軋み続けている。それは、時空が開くほのかな兆し。
太い柱や天井の梁に、エメラルド・グリーンがほとばしる。
瞬時に走る雷のように、壁を伝って天井へ。
今や音は鳴り響き、異変は店全体に及んでいる。
エメラルド・グリーンの洪水が、店いっぱいに膨張した。
つけ狙っていた遠野を取り込み、光が一点に収縮する。
ぐん、と強い圧がかかった。
閉じた瞼の裏側で、閃き、消える、いくつもの光景。
細く降りつづく雨の音。
吸い殻のあふれたアルミの灰皿。
ざわめき煙る猥雑な酒場。
景色が、でたらめに飛んでいく。
暴力的に歪な響きで、空気を切り裂くクラクション。
アスファルトを闊歩する、黒い革靴、昼の雑踏。
ギラギラ照りつける真夏の太陽。
木陰に置かれた乳母車の中の、赤子の甲高い笑い声。
ひらいた窓から聞こえるピアノ。
白い霧に沈みこむ、深い、深い鐘の音。
セカイが出口を調整している。
あの場所を捜している。
目的地点は、あの歩道。改修中で入れなかった日比谷図書館近辺の。
2010年、炎天下の東京。
誰もいない世界の果てで、カラカラ糸車がまわり出す。
夕暮れの壁に貼り付いた、黒い影絵が動き出す。
無人の部屋の暗がりで、不意に明るくなる画面。
突如、無音に放り出された。
耳を突く、痛いほどの静寂。これは、
「──オイフォン、か」
完全なる無の中で、液晶画面のデジタル表紙が、カチリ──と一秒、時を刻む。
そうして世界は「帳尻」を合わせる。
( ※ 第2部4章 interval 〜流転〜」 )
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