interval 〜 神々の庭 4 〜
( → 「神々の庭」1 2 3 )
「もういいよ、お姫さん」
ギイは優しく頭をなでた。
その膝でプリシラは、あわてて顔を振りあげる。「まって! もっと、できるから! もっと、もっと、がんばるから!」
「いや、お陰で大分事情もわかった。終わりにしよう。ご苦労さん」
「でも!」
見えない瞳でひしと見入るプリシラを、ギイは膝から抱きあげた。
合図で近寄ってきたガスパルに、華奢な体を引き渡す。「寝かせてやれ」
「ギイっ!」
「ゆっくり休みな、お姫さん」
笑って頭を一なでし、ギイはぶらぶら歩み去る。
「まって!」
かかえあげたガスパルの腕からプリシラは身を乗り出して、懸命に手を突き伸ばす。
「わたし、もっと役に立つから! だから、まって!」
行かないで。ギイ。
「あーあー、すっかり、しょげちまって」
歩み寄る肩越しにそれを見やって、ガスパルがあてつけがましく目を戻した。
「──仕方がねえだろ」
町からようやく戻ったギイは、夕刻の街道で足を止める。「遊び盛りの六歳のガキが立派な眠り姫になっちまったんだぞ。これ以上無理はさせられねえよ」
小さな肩にかかる負担を、早急に取り除くべきだった。一日の大半を眠って過ごすなど、誰が聞いても尋常ではない。つまり、確実に弱っているのだ。いかにも幼いあの少女を、使い潰すつもりはギイにはない。
街道脇の野草の斜面に、ぽつんとプリシラが座っていた。
ご機嫌とりで買ってやったウサギのぬいぐるみを抱きしめて。瞼を半分力なく閉じた、まつ毛の長いきれいな瞳は、うつろに虚空をながめている。
斜面の下の野原では、男児二人が遊んでいるが、プリシラは混じろうとするでもない。もっとも、二人の男児の方も、特に気にかけるふうでもないから、あの三人の間では、それが普通であるのかもしれない。そもそも腕白坊主と駆け回るには、ひ弱な女の子であるという以前に、プリシラは目が不自由だ。
ぽつねんと斜面に腰かけた少女の姿をながめたままで、ガスパルは上着の懐を探る。
「恋する女の顔ですよ、ありゃ」
「馬鹿いえ。六歳の子供じゃねえかよ」
「──は。なにとぼけてんすか」
くわえた煙草に火を点けて、顔をゆがめて振り向いた。
「あんなカワイコちゃんにしがみつかれて、別の男がいいって泣かれる俺の気持ちがわかります? あれだけ毎日チヤホヤしといて、用が済んだら放り出すってんだから、罪な人ですよ、まったく頭も。もっと構ってやったら、どうっすか」
「無茶言うな。俺だって、そうそう暇じゃない」
「娼家から今の今、ご帰還あそばしたのは、どこのどなたでしたっけね」
「──気分を変えて、作戦練り直してきたんじゃねえかよ」
じとり、と皮肉をぶつける部下から、苦虫かみつぶして目をそらす。「それに、俺にだって必要なんだよ、たまにはガキじゃない成熟した女が」
俺にも羽を伸ばさせてくれよ、と溜息でぼやいたその前で、ガスパルは少女を振りかえる。
「……構ってもらったことが、なかったんすかね」
横顔でしみじみと目を細めた。「あんなふうに膝に乗っけて、頭をなでてもらったことが。なにせ、ああいうガキだから」
「──。行ってくりゃいいんだろ」
あてつけがましく、ちらり、と促すガスパルの頭をギイはこづいて、やれやれと少女に踏み出した。
「あの野郎。いつからガキの手先になった……」
夕風に吹かれて街道を歩き、うなだれた小さな少女に近づく。
背を折り、横から顔を覗いた。「ご機嫌いかが、お姫さん」
「──ギイっ!?」
細い髪を振り払い、プリシラが目をみはって振り向いた。
「ギイ! ギイ! お話があるの」
「へえ。一体何だろうな」
斜面に腰を下ろしつつ、途端にすがりついたプリシラを、笑って膝に抱きあげる。
「あのね、もう少しでわかるから」
「わかるって何が?」
「一番悪い人のこと」
思いがけず、返事に詰まった。「──それは、言っちゃ駄目なことなんだろう?」
「二番目に悪い人は王子様よ」
構わずプリシラは先を続ける。
ギイは呆気にとられて言葉を失い、そして、困った苦笑いを浮かべた。少女の大きな、食い入るように真剣な瞳。どうしても気を引きたくて、おとぎ話を始めるらしい。
「じゃ、一番悪いのは王様かい?」
話を合わせておどけてやると、プリシラが目をみはって絶句した。
恐る恐るというように、どこか怯えたように顔をうかがう。「──ギイ、どうして、わかったの?」
「王子様の次は王様と、大抵相場が決まっている。だが、カレリアの王様のことなら、俺の方が詳しいと思うぞ?」
わけが分からないという顔で、プリシラが面食らったように黙り込んだ。
すぐに、もどかしげに顔をしかめる。「──ちがうの。そうじゃなくてその人は、セカイを統べる"三人の王"の一人よ」
「だから、各国におわす王様だろう? そうか。カレリアでなければシャンバールか? ああ、いや、それともザメールかな?」
「──ちがうの。そういう王様じゃなくて」
「なら、一体どこの誰だい?」
「……それは」
プリシラは力なく首を振った。「……わたしじゃ、中々わからなくて。王様の力は強いから。だけど、もうすぐ──」
硬い声音が、ふっと途切れた。
子供の細い両腕を伸ばして、プリシラが懐にもぐりこむ。
「……ギイ、お願い。そばにいて」
「ここにいるよ、お姫さん」
子供の柔らかな頭髪を、ギイはゆっくりなでてやる。しがみついたまま身じろいで、プリシラは視線をめぐらせる。
「……ギイ、知ってる?」
大きな瞳を潤ませて、西の山端の夕日をながめた。
「竜があんなに鳴いているのは、きっと竜も寂しいからよ」
目をみはって向かいを凝視し、ダイは身をこわばらせていた。
青い野草の根元には、身を低くして牙をむく狼。
きっかけは、ちょっとした悪戯だった。叱られた腹いせにからかっていたら、急に反撃されたのだ。
"力"を使えば、撃退できた。狼くらいは、すぐに吹っ飛ぶ。なのに今日は、体がすくんで動けない。
震える足で、せめて、じりじり後ずさる。
剣呑に唸る狼が、いっそう身を低くする。
茶色の毛皮が跳躍した。
赤い顎。迫る牙。とっさにダイは、首を縮めて奥歯を噛む。
甲高い咆哮が、耳に飛びこむ。
だが、何もぶつかってこない。意識を凝らすが、体はどこも痛くない。すぐ目の前に気配があるのに。
何事もないのを不審に思い、ぎゅっと硬くつぶった瞼を、恐る恐るこじあげる。
「は。なんとか間に合ったか」
男の背中が、刃を払った。
逃げていく毛皮を目で追いながら「……あっぶねえ」とごちて、振りかえる。
尻もちをついていた地面から、うるんだ視界でダイは見あげる。
「よう。大丈夫かよ、ぼうず」
にっと男が、ふてぶてしく笑った。
「よせよっ……おろせよ! 怖いだろっ!?」
街道をおおう夏空に、子供の怒鳴り声が響き渡る。
肩車で戻ったダイを見て、クレーメンスは微笑んだ。なんと、肩車をしているのは、あの宿敵ガスパルではないか。
頭にしがみついたダイの方も、高い視界にあわあわしつつも、どうやら満更でもない様子。本気で嫌がっているのなら、とうに蹴とばして飛び降りている。
世にも不思議なこの光景に、野草の海から立ちあがったヨハンも、目を丸くして突っ立っている。
「よう。一体なにがあった?」
声をかけるとガスパルは、片頬で笑い、肩をすくめた。
「別になんにもありませんよ。──な?」
後の言葉で、ダイに目配せ。
途端にダイは顔を赤らめ、口をとがらせて、そっぽを向く。「う、うん……」
ばつの悪そうなその顔に、ガスパルは一瞥をくれたきり、ぶらぶら気負いなく歩いてくる。「救急箱、どこでしたっけね。膝すりむいたようなんで」
ぶらぶら揺れるダイの膝には、なるほど血がにじんでいる。
「車内の右端、緑のでかいザックの中だ」
「了解。消毒してきます」
肩車されて落ち着かなげなダイの顔に笑いかけ、クレーメンスは頭をなでる。「よく泣かなかったな。偉いぞ、ダイ」
「こっ、こんなの別に、大したことないよっ」
ダイは力んでむきになり、どぎまぎした顔で言い返す。
通り過ぎざま、ぼそりとガスパルが付け足した。「腰が抜けちまって立てないんすよ、こいつ」
「あっ!? なんで言うんだよっ!」
目をみはって振り向いたダイが、ガスパルの頭に取りついた。
こぶしを固めて、ぽかぽか殴る。だが、その手に力は込められていない。
ぽかんとした顔を笑みに変え、ヨハンが腕を振り、駆けてきた。肩車されたダイに取りつき、説明を乞うように笑いかける。
ダイがガスパルに食ってかかった。「なんでバラすんだよっ、ばかガスパルっ!」
「ガスパルさんだろ。たく。何度言っても直んねえな、お前は」
「なんだよ! ガスパルはガスパルだろっ!」
「俺は大人、お前は子供。口のきき方ってもんがあるだろうが。たく。耳元でそんなに怒鳴るんじゃねえよ。鼓膜が破れたら、どうしてくれる──痛ってえ!? 蹴るなよクソガキが!」
ダイはガスパルとの言い合いに夢中だ。
気づかず去っていくその背中を、ヨハンはぽつねんと見送った。
大木の下で膝を抱えて、ヨハンは腕で目元をぬぐった。
このところダイは、ガスパルと話してばかりいる。ガスパルの方はそれとなく輪の中に入れてくれるが、当のダイは話に夢中で、そばにいるのに気づかない。
すっかり蚊帳の外だった。
新しくできた友だちに、ダイはすっかり夢中なのだ。あんなに嫌っていたガスパルと、なぜだか急に仲良くなった。
のろのろと立ちあがり、唇をかみしめて梢を見あげた。
いつものように小鳥を探す。
枝から枝へと飛び移る影。小さな羽ばたき──スズメだろうか。その動きを殊更に目で追う。胸の痛みを忘れられるように。
鳥は数少ない友達だった。空を自在に飛びまわる鳥は、ヨハンの密かな憧れだ。鳥は探せば、どこにでもいるし、鳥なら、言葉は必要ない。
え? とヨハンは見直した。スズメの他にも何かいる。もっと大きな、黒っぽい──はっとして後ろを振りかえる。
男がひとり立っていた。
見たことのない若い顔。町で見かけるような平服の。
「好きか、鳥」
相手の声は聞きとれないが、言わんとするところは察しがつく。
意識を凝らしてうなずくと、男は高い枝を見あげて、おもむろに片腕を突き出した。
ばさり、と大きな羽ばたきが聞こえ、黒い鳥が降りてくる。
男の腕に鳥は舞い降り、その腕を無造作に男は突き出す。
「なでてみな。食いつきはしない」
促されるままに手を伸ばし、ヨハンは黒光りする背羽に触れた。
恐る恐る手のひらでなでても、鳥は逃げもせず、大人しくしている。
顔を輝かせて見あげると、男が頭に手を置いた。
緑の野原の片隅で、ダイとヨハンの二人の男児が、新顔の青年にまとわりついていた。彼が連れている青鳥に、興味津々見入っているのだ。
とはいえ、かくいう子供らも、以前訪れた遊牧民のキャンプで、青鳥の雛と戯れていたが──それを思い出して指摘すると、だが、二人は顔を見合わせ、いともあっさりと首を振った。あれとこれとは別物だと。
腰にまとわりつかれた青年は、子供らに対して不愛想だ。とはいえ、ぞんざいに扱っているわけではない。寡黙で無表情だから、そう見えるというだけで。
かねてより手配していた鳥師のグリフィスが到着していた。
切れ長の目で、目立たない容姿。だが、それはむしろ優れた資質というべきだろう。町中に潜伏し、情報を集める鳥師としては。
鳥師が持ってきた情報で、透視の裏付けが行われていた。
それにより明らかになったのは、たどたどしい少女の話が、現状を正確になぞっていた、という驚くべき事実だ。
少女の途轍もない能力に、改めて舌を巻いていた。
そして、こうなると、事情がいささか変わってくる。
「……王子様に、王様、か」
街道に停めた幌馬車をながめ、ギイは夏空に紫煙を吐く。思いがけずもたらされた、一連の騒動の黒幕の情報。そう、あれは案外おとぎ話などではなかったのかもしれない。あの時は歓心を買うために作り話を始めたのかと思ったが──。
この件で「一番悪い人」は、世界を統べる「三人の王」の内の一人──プリシラは確かにそう言った。だが、同時にそれは、いわゆる国王のことではない、とも。
とはいえ、大陸は三つあり「三人の王」が治めている。そして、王とは至高であり、容易く名乗れる名称でもない。
ならば「王」とはただの比喩で、単に「権力者」の意で使っているのか。これまでの聴取を思い出しても、そうしたことは、ままあった。つまり、国王に次ぐ権威といえば、
「領主のことか」
カレリアには、領主が三人いる。ラトキエ、ディール、クレストの各当主だ。それを少女が拙い語彙で王に喩えたというのなら──。その流れで考えるなら「二番目に悪い王子様」は、さしずめ領家の跡取り息子。つまり、
「──アルベール=ラトキエ、か」
配役は、うまく当てはまる。
現に、カレリア国王に嫡子はいない。そして、軍を率いているのは、この国最大の実力者、ラトキエ領家の総領息子。更には、急襲された治領の首都を奪還したのみならず、手勢もないのに反撃に転じたあの手際。優位というのに撤退したディール領家の不可解な動き──。
虚空に視線を投げたまま、ギイは眉をひそめた。伏せられた手札が、めくられていく。ぽっかり開いた真実の隙間を、着々と埋めていくように。
一連の軋みを見る限り、誰かが裏で糸を引いているのは確実だった。どこかの領主が黒幕というのも無理がない。だが、何かが引っ掛かる。言わずと知れた、あの留保だ。
──いわゆる国王のことではない。
どんなに突き詰めて考えようとも、結局はあの、不確実な地点に引き戻される。
「──もう一度聞くか、プリシラの話を」
それに勝る方策はない。
それにしても、と鳥師に取りつく子供らをながめて、ギイはにやりと口端をあげる。
「やっと、運が向いてきたか」
プリシラの「透視」と鳥師の「裏付け」 それにダイの「実行手段」が加われば、攻守盤石の備えになる。いや、これほど揺るぎない優位があろうか。
黒幕の正体を押さえること即ち、この戦の全貌を、手中にするも同然だ。それで複雑に張り巡らされた、全ての動線が自ずと知れる。
青くなびく草海に、ギイはわずか目をすがめる。
「──誰なんだ、黒幕は」
三人の子供が言葉を濁した、この件の"一番悪い人" ──
「あれ。お姫さんは?」
街道の先からやってきたのは、入用な品を調達するため、町に行っていたガスパルだった。
その姿を見つけたようで、クレーメンスが男児の元から引きあげてきた。「ああ、戻ったか。ご苦労さん。プリシラなら、そこに──」
青草の斜面を笑って指さし、あれ? と瞬き、頭をかいた。
「おかしいな。そこにいたのに」
夏空にひらけた街道の縁で、野草が青く揺れていた。少女の姿は見当たらない。
「なら、車内に戻ったのかな。でも、今の今まで座っていたのに……」
首をひねってクレーメンスは歩き、馬車の幌に頭を突っ込む。
すぐに出てきて、首を傾げた。「いないな」
手にさげた紙袋に顔をしかめて、ガスパルは辺りを見まわす。「せっかく、甘い菓子買ってきたのに」
思わずギイは見返した。無神経で粗略を地で行く地図屋が、わざわざ菓子を買ってくるとは。元気のない少女のために。
ガスパルが軽く舌打ちし、茶色の紙袋を押し付けた。
「ちょっと、そこらを見てきますわ。坊主どもに見つかると、うるせえから」
男児がいる野原とは逆の、斜面をそわそわ降りていく。男児の分はないらしい。
「……お姫さんに、ね」
押し付けられた土産の袋を、ギイはしげしげと見下ろした。
「ずいぶん気が利くようになったじゃねえかよ」
地図屋がそわつくなど前代未聞だ。
ギイは苦笑いして腰を下ろし、寝転がって足を組む。ぬるい風を感じつつ、草海に抱かれ、目を閉じる。
すべてが順調に回り始めていた。プリシラの聴取もあらかた終わり、事あるごとにぶつかっていたガスパルと子供らとの関係も好転。更には鳥師の到着で、トラビアの情報ももたらされる──。
この先の青写真が、すんなりと描けた。
トラビアの動向を「鳥師」で押さえ、危険を回避して街に潜入。街壁さえ越してしまえば、後のことは、どうとでもなる。敵が何人出てこようが、すべて「ダイ」一人で対処できる。
そして、領主の居場所を「プリシラ」が割り出し、抜け道を使って外に連れ出す。そして、領土に連れ戻す──。
一段落ついた心地で、ゆるく息を吐き出した。
ゆっくり空を移動する、雲の動きをギイはながめる。
「──頭、ちょっと」
硬い声音に振り向くと、ガスパルが真顔で見つめていた。
それを見つめて、しゃがみ込み、ギイは苦々しく顔をしかめた。
「──なんてこった」
男児のいる野原とは、街道を挟んだ逆側だった。斜面の下の、大木の根元で、手足を投げだし、横たわっている。
しん、と少女が事切れていた。
昼寝をしているような安らいだ顔で。頬には、うっすら笑みさえ浮かべて。
遺体を見つけたガスパルも、顔をしかめて立っている。
「……かわいそうなことを、しちまったな」
長く息を吐き出して、ギイはゆるく首を振った。体力を削る連日の聴取には、やはり耐えられなかったか。いや、こうなることは薄々わかっていたはずだ。手を引くのが遅すぎた。
「──ガスパル」
殺伐とした思いを抱えつつ、やるせない溜息で指示を出す。
「クレーメンスを呼んでこい。ガキにはまだ知らせるな」
「──いえ、頭、その前に」
ガスパルが何かに気づいた顔で、怪訝そうに眉をひそめた。
膝を折り、少女の細い首元を覗く。
「こいつを見てください。この首の──これ、ひょっとすると、誰かに」
うっすら赤い痕をさし、苦い顔で見返した。
「殺されたんじゃないすかね」
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